ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

キメセク依存。つまりは引き金に指をかけたままの人生。

引き金
ボクは覚せい剤が好きというよりは、覚せい剤を使ってやるセックスが好きなので、覚せい剤依存ではなくキメセク依存といった方がたぶん正しい。
だから覚せい剤を使う引き金(欲求のきっかけになるもの)を尋ねられてもよくわからない。じゃあキメセクの引き金は?なんだろう。...性欲か?そうとしか答えようがない。
たぶんボクは常にmrmrしている。…しかたない。人間(オス)ですからね。
よくいう「給料日」「仕事の後」「公衆トイレ」「クラブ」「ミネラルウォーター」「ドラッグストア」…そういう外的引き金はキメセクを連想させることはあっても直接性欲を高めることはない。じゃあ何が性欲を刺激するのか…。しいていうなら「自分の性的興奮に耳を傾けやすい(かつ行動化しやすい)ひとりきりの(予定がない)時間」というのがボクにとっては引き金と呼べるのかもしれない。だけど、ひとりでいるときに再使用(再交尾)へこころがよろめいてしまうってわかっていても、それをさけるために誰かにいつもそばにいてもらうわけにはいかない。だって孤独も好きだし。ひとりが好きでひとりがスリップの引き金になる。つまりは引き金に指をかけたままの人生。うーーーん。なやましい。


「あの人の前では覚せい剤を使いづらい。悲しませたくない」って人はいるだろうか。当たり前に家族だったり、友達だったり浮かぶんだけど…正直、罪悪感は歯止めにはなんないんだよね。どんな人もどんな場所もストッパーにならない。やるときゃやる。
そんな重症なボクでも目の前にクスリがあったのにキメセクをためらった(やれなかった)ことが過去三度ある。
まずは注射器がなかったとき。ボクは針中(注射をうつ瞬間を愛する人)なので炙りもアンダーインも論外。その時はペンが手に入るまでの丸一日以上を我慢できた貴重な体験だった。
次に、痔だったったとき。キメセクはアナル不可だとやる意味がない。わがままにどっちもやりたい派なんです。(わかるやつにだけわかればいい)。おしりかち○こが壊れたらボクの依存症は完治するんだと思う。文字通り痔エンド。
それからもうひとつが、歯医者に行かなければいけなかったとき。クスリが体に残ったまんまの歯医者はもう失神(&失禁)しそうになるくらいの激痛覚悟なんでこれも体が拒否。
この3つの状況のときにだけ、ボクはノーと言えるアディクトとなれた。
それ以外は、もう金曜の夜からは使うってスケジュールに組み込まれてたんで錨も引き金もなかった。
みんなはどうだったんだろう…。

 

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引き金は引いてこそ引き金
どんなに重く大きな錨があったとしても指先ひとつで引き金はひけてしまう。もしかしたら錨がうっとうしいなんてことを理由に引き金を引こうとするのかもしれない。まあそれもいんじゃないかって思ったりもする。
「引き金と錨の一覧表」をみても100%(いつも使っていた)と0%(決して使わない)の両極端に集中している。いつも使うかいつも使わない。あいだがない。あいだがないから疲れる。
過激派がロハスに走る。凶悪犯が牧師になる。晴美が寂聴に変わる。そんな反転を凡人に求められても困るんだよね。「だいたい使っていた」「ほとんど使わなかった」のスカスカ部分を埋めていくことを目標にしてもいんじゃなかろうか。「もう一生使いません」なんて血眼で生きるか死ぬかみたいになるよりも、もっとポップに「盆と正月の連休だけは彼氏とこもって楽しみまーす」って方が夢があっていんじゃないか。きっとこういう意見は教科書的にはナンセンスなんだろうけど。クスリの使用も人生で丸め込む。それもありだと誰か言ってはくれないか。
こんな風に思うのは再発のサインなのかな。まあいいや。

なんか依存症について語ると結局セックスの話になってしまって24時間365日全方向性的人間っぽく思われてやしないかとても心配になるんだよなあ。

アニバーサリー

六年前の五月の最終土曜日の早朝だった。新宿のとある有料ハッテンバを出たボクに待ち伏せしていたパトカーが近づいてきた。
ハッテン場の前で出待ちするパトカーって、海へとぺたぺた不器用に這っていく生まれたてのウミガメを容赦なく貪るカモメみたいで胸糞悪い。ちゃんと足を使って働け。いつも舌打ちして見ていたが自分が狙い撃ちされる立場になるなんて想像もしなかった。
ヤバいと思った時にはもう遅かった。慣れた手つきで二人の警官がバッグの中身をチェックしようとする。バッグの中のポーチには(もちろんボクの体の中にも)クスリが入っていて万事休す。「礼状を出して欲しい」と静かに抵抗した。令状がだされるまで絶対にここから動かないと決めて、警察官との押し問答の約五時間。公園の鳩みたいにどんどん増えてくる警察官。物珍しそうに見ていく歩行者。キメキメの脳みそで乗り越えるは本当につらかった。一年分の根性をあそこで使い果たした気がする。土曜だしもしかしたら令状が出ないかも、出たとしてもこんな長時間拘束するような逮捕は不当になるのではないかという根拠のない期待にかけて…無駄だった。結局令状が出て、矯正的開帳。ポーチから出てきた白い結晶物は簡易検査で覚せい剤と判定される。直後、遠くから近づいてきたあのパトカーの警報音と赤いライトは二度と忘れることはないだろう。

あの時、もっと地味目な服を着ていたら…
あの時、誰かの後に店を出ていたら…
あの時、次の待ち合わせの時間をもっと遅くしていたら…
あの時、タクシーをうまく捕まえてたら…
あの時、全部使い切ってしまっていたら…
クスリを使っていなかったら、やめていたらとは一切思わなかったので、これははきっと後悔であって反省ではない。

屈強な警察官に挟まれてパトカーに押しこめられながら「オレの人生終わった」と絶望した。同時に「ああやっと終わってくれた」と解放された気もした。だからなのか今でもあんなに嫌いなはずのパトカーのサイレンを聞いたり赤いライトをみたりすると、ふらふらっとクスリを使いたくなってしまう。焚火の炎に飛び込んでいく羽虫の悲しさ。
五月の最終土曜日。忘れたい記憶ほど覚えているもんだ。

 

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最後までボクを護ってくれようとしたマスターピースのバッグ。

回復

無期懲役のその人はいつも少し透けていた。うすーくなって奥の景色が透けて見えた。刑務所での収監生活が何十年も続くとこんな風になるんだなあと感心した。役割が一つしかないせいなんだと思う。人が健康に人間らしく暮らしていくには3つのコミュニティを持つ必要があるらしい。家族も友達もいない彼には囚人という役割しかない。だからあんな風になんだか中途半端な透明人間みたいになってしまったんだろうなあ。
他人事ではない。今のボクも似たようなもんだ。仕事をせずに薬物依存症のリハビリにだけせっせと通う毎日。生きてはいるけど生活はしていない。居心地よすぎて最近少し色白だ。

今回の離脱プログラムのテーマは「回復」だった。回復は「緊張期」から「ハネムーン期」、そして「壁期」を経て「適応期」へと進んでいくらしい。それぞれに課題と対処法が書かれてある。ボクにとっては生きづらさへの対処法がクスリだったので、そのクスリへの対処法をって言われると混乱しそうになるが、頭でっかちにならないでおくことも大事なんだろう。

きっとボクはいま「壁期」にいる。壁期の特徴は「退屈さ」であり、対処法はのんべんだらりとするんじゃなく「活動的に」薬物なしの時間をすごしたらいいと書かれてある。「活動的な生活」か…すこし怖い。今の薬物依存症者という役割だけの暮らしだったら、再使用は一大事でなんとしても避けなければいけない命題である。スリップした場合のショックは甚大であろうから命懸けで回避しようとする。それが活動的な生活になり、仕事なんかをはじめ、新たな役割が手に入れば、再使用への恐怖感が薄まってしまう。アディクトでない役割の自分がアディクトの自分を甘やかし赦すからだ。
まあだからといってずっとこのままでいいわけじゃないこともわかっている。いや、このままでいるという選択肢もあるのだろうがボクはそれを選びたくないし選ぶつもりもない。時期を見て次のステージを目指さないとなあ。
最終段階の「適応期」になったって渇望がなくなるとは書いてない。渇望への対峙の仕方が変わるだけだ。結局しばらくはずっと壁期なんだと思う。まあいいさミスチルだって「高ければ高い壁の方が登った時気持ちいもんな」って歌ってるし。あー...回復って終わりなき旅だぜ。

ボクはまだ第一期のアディクトなんだと思う。回復を考える時には回復のイメージをきちんともっていることが大事だ。三つのコミュニティに所属してもなおシラフの生活が続けることのできる第二期のアディクトが回復の理想形なんだろう。まずは三つのコミュニティを探そう。そういう風に考えると回復も楽しみに思える。少し線が薄くなってしまっている自分ならではの輪郭をそんなこんなで少しずつとりもどしていきたい。

 

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ボクは刑務所がきらいだ

たぶん性格は明るいんだと思う。嫌なことがあっても次の日まで引きずるようなことはほとんどない。前向きだよねとよく言われるし、自分でもそうだと思う。そんなボクがいつまでも引きずったまま、どうしても負の感情を払拭できない記憶がある。それは刑務所での収監生活。ここでの文章はポジショントーク以外の何物でもないことはわかっている。だけどどうせ忘れられないんだったらと書くことにする。
いろいろしんどいことはあったけど、刑務所はしんどい思いをするための場所だということはわかっていたのであまんじる覚悟はあった。それでもこれはどうなのかという仕打ちもあった。特にセクシャリティに関するハラスメント…。
刑務官にそんなつもりはないのかもしれないが、刑務所でなければ訴えられるであろうというようなやりとりが日常茶飯事だった。LGBTへの揶揄、囃し立て、からかい…思うのは自由だが言ってしまうのかそれを?もうちょっとためらいってものがあってもいいのだろう。そんな風にいつも思っていた。
基本、ゲイだと単独室処遇になり、他の受刑者との日常接触は制限されるが、ごくたまに時間の都合で入浴が一緒になることがある。ゲイの受刑者二人で浴槽に浸かっていると「お前らは入浴中は両手を挙げろ」って…はじめは何をいわれているのかわからなかった。湯船の中で悪さをするんじゃないかと思われていたらしい。ジョークかと思ったがどうもそうではないっぽい。全裸だと人は無力になる。服を着ている相手を前にすると特にだ。従順に手を挙げておいた。とても悔しかった。悔しかったから次の混合入浴のとき、刑務官が目を離したすきを狙って当時(刑務所内で)付き合っていた相手のモノを咥えてみた。一矢報いた充実感。
話を戻すが、トランスの方とも入浴が一緒になることがある。その人は必死に抵抗して個浴にしてほしいと訴えていたが「男と一緒に入れて嬉しいだろう」って一蹴。ほんと刑務官って言うことが下世話なオヤジだ。
そのことをそのトランスの方は後日運動中に笑い話にしてみんなに話題提供する。人は怒っても泣いても仕方ないことを笑いにかえる。笑いたくて笑っているんじゃなくて、笑うしかなくて笑っている。悲しい笑いだ。その笑いに違和感をおぼえても誰も(自分自身でさえも)口にできず、違和感はなかったことになってしまう。刑務所だから特別というわけではないけれど…。
そういう負のエピソードの積み重ねで刑務所の思い出を出来上げてしまった。だからホリエモンが検察を全否定する気持ちがすごくわかる。ボクも未だに法務省関係者に対しては一切こころをひらけない。ノーモア法務省保護観察所の福祉職の方に対しても迎合してなるものかという意思がある。なんだかなあ。
「刑務所だから特に気にかけてもらいたいという気持ちもある。おかしいことをおかしいと言いにくい(言えない)場所なんだから」。こんな風にいつもだったら思慮深く言葉を選び選び、嫌な過去もこれからの期待に変えれるんだが、そういう気持ちすら一切ない。刑務所はボクにとっては絶対的負の存在であるというゆるぎなさ。そこがすごくさみしい。

 

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刑務所で書いたラブレター(再現)は刑務所にいるうちしか効力がないらしい。つき合えたけど出たらうまくいかなくなりました。

痛快!韓流ドラマ「愛の不時着」

韓流ドラマが大好きな年上の女性の友人から「愛の不時着」を観て欲しいとLINEのメッセージがはいる。ボクの感想次第でネットフリックスに入るかどうか決めるらしい。どんな感想であれきっと加入するんだろうなあとは思ったがこういうのも縁だと思って観ることにした。
元々韓国映画ってそんなに馴染みがない。血が出る映画が苦手なんです。韓国映画ってだいたいどれも鼻血くらいはぷしゅっと出る血の気の強いイメージがあってずっと避けていた。これまで何を見ただろう…記憶にあるもので「シークレットサンシャイン」と「オールドボーイ」くらいだ。あと板門店に観光で行く前に予習として「JSA」を観たっけ。どれも決定的なシーンで血がドバドバ出ていた。間違いなく面白いんだけどやっぱり疲れた。観客の想像にゆだねるためのすき間が準備されている邦画に比べて、韓国映画はとにかく密度が濃い。引き算の演出と足し算(掛け算)の演出の違いとでもいようか。
というわけでかなりマイナスからのスタートだった「愛の不時着」であるが、これがすこぶる面白い。まだ4話までしか見ていないが喜怒哀楽のメリハリの効き具合が心地いい。血もあまり出ないし安心してみれる。
この主人公日本人の俳優だったら吉高で詐欺師は綾野剛かなとか、お父さんは風間杜夫でお母さんは若いころの岸田今日子。義理の妹はこれも若いころの寺島しのぶで…ってキャスティングを日本の俳優にあてはめて想像したりして…そういう楽しみ方もできるし。もちろん内容も…とにかく勢いがっていい。そんなことありえないだろうってことが次々に起こってもう笑ってしまうんだが、勢いでもってかれる。重ね着のエンタメのすごみが炸裂して痛快だ。
人の業、家族の絆の光と影、社会の圧力…韓国も(北朝鮮も)日本も同じなんだなあ。リアルすぎる邦画よりも韓国作品の方が気づかせてくれる。今、日本で日本人として生きることの意味を。
一日一話ずつのペースであと残り12話。とにかくもう食わず嫌いはやめようと思った。
そうだ!これ言っとかなきゃ。「まだ途中までですが「愛の不時着」お気に召すと思いますよ。安心してネットフリックスに入ってください」。

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1980年代の浅野温子が出ててびっくり。

30メモ

注射器にはメモリがある。ボクが覚せい剤を使っていた当時は一メモ500円が相場だった。使い始めたころは、まず一発目に7入れて5、6時間、追加で3入れて朝まで楽しめた。10メモあれば十分だった。5,000円でオールナイトぶっ飛べる。月に一回程度だったらこのくらいの時間とお金はどうとでもなる。生活に支障をきたすものではない。依存症になるのは使用者の1割程度だといわれている。きっとうまくペースと量を自分でコントロールできている人たちの方が多いんだろう。
残念ながらボクはそうではなかった。覚せい剤に耐性がついてしまったボクは半年後には一回に30メモ入れるようになっていた。それだけの量をいれると打ちながら射精してしまう。まさにところてんだ。これを言うとうらやましがられるが、セックスドラックとして使用していた者としては致命的でもある。5,000円で一晩楽しめていたのに、たった数秒で15,000円が精液とともに飛んでいく…
色々話を聞いているとやはり「30メモ」というのが底つきのリミッターみたいだ。「30こえたらヤバイ」。本能が騒ぎ出す。(使用自体でもうやばいんだけど…)。わかっちゃいるけどやめられないのがアディクトの性。少しでも量を減らそうと努力はしていた。ペンのメモリを爪で削ってわからないようにして30へのこだわりを消そうとしたり、クエン酸を混ぜてかさまししたり、二本のペンにわけていれたり…どれもうまくいかなかった。唯一30メモを超える興奮を与えてくれたのは、どのくらいいれるかをすべて相手に任せて目隠しでいれてもらったときだけだ。あのワクワクドキドキはハンパなかった。後から聞いたところしょぼい量しかいれてなかったらしく(ケチくさ)、ほんと人間の脳って騙されやすいってことがよくわかった。もし今量を減らそうとしている人がいたら是非この方法をお勧めする。
身体への薬理作用としては7以上入れても変わらないらしい。それなのに、わかっているのに次にやるとしたら30くらいいれたいなあと思ってしまう自分がいる。もうしばらくやっていないのにそう考えてしまう。精神依存と耐性の怖さ。四十にして惑わずって孔子もいってることだし、30くらいで迷ってるうちが花なんだろうなあ。

 

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注射器の画像は誰かの引き金になるかもだから載せません。これはウルトラヘブンから一コマ拝借。

ネバーエンディングジャンキー~ひきがねと欲求〜

例えばある夜、ネタをひこうと売人に電話したところ今夜はどうしても手元になくて明日の夜だにしか渡すことができないと言われたとする。つまり使わないという選択をするために丸一日猶予を与えられたわけだ。ところがこうなったらもう何をしたところで止めることは出来ない。ご主人さまにお預けを言い渡されて、餌を前に涎をたらしながらうーうー唸っている犬を想像してほしい。ああいう感じになってしまう。約束の時間まで時計の針が進んでいくのをただ待つだけの生き物になる。
どうすればいいかって離脱プログラムのテキストにはこんな対処法が書いてある。

「クスリに関係のない映像を頭に浮かべる」…いや無理でしょ。
「輪ゴムパッチン」…子供だましか。
腹式呼吸」……。っでって感じ。
「誰かへのSOS」…この状況から救ってくれるのは売人だけだと思う。
思考ストップ法と言うんだって。でも思考を止めようと思うとどんどん欲求が加速していく気がしてどうもボクには合わない。そして薬物依存治療の最先端のスマープでさえもゴムパッチンって…。この病の底の深さというか闇の暗さをつきつけられた気分にさせられる。
自分でも「逆立ち」とか「マスターベション」とか「満腹」とか「爆買い」とか…それなり使用回避のための自助努力はしている。だけど猫に小判焼け石に水。欲求に理性。使いたいって気持ちが根底にあるから自分に対して手加減してしまうんだと思う。
それに加えて体質問題。どうしても我慢できない症候群なんです。小学生のときからそうだった。校内にある火災非常ボタンをじっと見てしまうともう我慢できない。Can't stop fallin in  button いつも押してしまう。もちろん大騒ぎになる。そのたびに友達は減っていく。それでもやめれない。ひきがねに取りつかれてしまう体質なんだと思う。
そうなる前になにかきっかけがあったはずだとよく言われるけれど、それがあまりわからない。ほんと突然雷に打たれるみたいに欲求はあらわれる。
薬物依存症の治療ってそのひきがねってやつを探し続ける旅みたいなもんなのかなあ。見つけても取り憑かれてりゃあ話になんないんだけど...。今日のスマープはなんだかみんな暗かった。
帰りに「お大事に」とスタッフから声をかけられた。そうだよなあ、もっと自分を大事にあつかってあげなきゃなあ。

 

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スマープオリジナル刻印入りゴムパッチン!

義理と人情の人、小泉今日子。

 小泉今日子が世間を騒がせている。検察庁法改正案へ反対するというツイートをしたことでヤフーの芸能ニュースのトップに名前があがっていた。ちょっと驚いた。まだこんなに影響力があったんだと。そして少し誇らしくなってしまった。なぜならボクは彼女のファンだからだ。

 もうかれこれ30年以上になる。彼女のシングルだったらデビュー曲から順に全部言える。私の16才→素敵なラブリーボーイ→ひとり街角→春風の誘惑→真っ赤な女の子→半分少女艶姿なみだ娘...以後省略(ホントにいえるということは断っておきたい)。けっこうな熱量でもって追っかけていた。

 いつの頃からか2ちゃんねるなんかで画面をざーっとスクロールしてもそこに小泉今日子という文字があれば察知できる。そんな能力もついていた。
 飽きっぽい体質のボクがずっと追いかけて居られたのは、きっと彼女がずっと第一線にいたからだと思う。

 よく同時期に活躍していた松田聖子中森明菜と比べられることが多いけど、この二人が抜群の歌唱力とド派手な衣装で「私を観なさい」って感じでだったのに対して、小泉今日子は「私がみている世界をテレビの向うの視聴者にも見せてあげる」ってな風な見せかた方というかあり方が独特で魅力的だった。(そういうスタイルが当時のとんねるずなんかの内輪ネタとも相性がよかったんじゃないかと思う)。

 松田聖子でもなく中森明菜でもなく、小泉今日子が好きなボクにボクらしさがある。

 まあなんだかんだいってもルックスがすごかったっていうのは誰も否定しないだろう。小学生の頃だったはず、テレビの歌番組で彼女が「水のルージュ」を歌っているのを見ていて「どうして人間の顔には目と鼻と口しかないのにこんなに違うんだろう」って両親に聞いて困らせた記憶がある。

 芸能人だからゴーストライターや有能なブレーンがいるんじゃないかと疑われるのは有名人の性なのかもしれないが、インタビューやエッセイなんかが本当に本人の言葉なのかどうかは長く付き合っていればわかるもんだ。あのときああいっていたことがこうつながっているんだと実にはっきりとわかってしまう。彼女は自分の言葉をきちんと持っている人だということは確かだ。
10代のころは「コイズミ」が口癖で、20代は「自分の過去に責任を持つ」、30代は「しあわせ」「さみしい」とつぶやき、40代になってからは「折り返し」「泣きたくなる」。そういう言葉をよく使っていた。最近は「義理と人情以外にやらなきゃいけないことも特にない」と語っている。一世を風靡し日本中からの愛を享受して、それに対する義理と人情って...。それを思うとたった何文字のツイートであっても重くとても重く感じられる。

 もうボクも結構な大人になっているので自分の考えもそれなりにある。彼女がああいったから右にならえ、左へ行こうなんてことはない。ただ日本の芸能界にいて政治や社会を語れるほどさらに自由になった彼女をみてうれしいと思う。今日ボクはやっぱりまだ小泉今日子が好きなんだと確認できた。あなたのファンでよかったね、きっと…じゃなく確実によかった!そう断言できる感じだ。

 

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「空洞です」の音源化希望。

覚せい剤をやめるデメリットは?

今ボクは都下にあるとある精神病院に通っている。その病院で行われている物質使用障害治療プログラムへの参加するためだ。このプログラムの正式名称はSerigawa Methamphetamine Relapse Prevention Program。頭文字をとってSMARPP(スマープ)と呼ぶ(Aについては不明)。毎週一回、一時間半のグループセッションで全26回。一クール全て参加するとなると約半年かかる。ボクが参加しているグループは毎回十人程度のメンバーがいる。もう一つある曜日の違うグループだと参加人数は確実に二十人は超え、そこにスタッフの心理士や看護師、PSWなどが加わるため結構な大所帯だ。以前は両方通っていたが、コロナウイルスの影響で両方通っている人はどちらかを選んで欲しいというお達しが出たためワサワサしてない少人数の方をボクは選んだ。

 

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グループの導入時にまずインサート…ん?…クランクイン?…違う、アウトブレイク?なんかそういうやつ…チェックインだったっけなあ、まあそんな感じでまずは前回から今日までのそれぞれが課題として抱える薬物の使用状況を含めた近況を報告しあう。それが終わるとテーマについてテキストを読んだり、ワークしたり、そのワークについてそれぞれが考え思うことを発表したりする。その回のワークが全部終われば最後に感想を言ってクロージングするという流れだ。
どの回から参加するかはそれぞれのタイミングしだいってことになるんだが、ボクの参加しているグループでは前回最終セッションが終わったため今回から新クールとなった。第一回目の今回は「なぜ薬物をやめなくてはいけないの?」という原点回帰なテーマだった。こういう直球のテーマって正直苦手だ。ただワークなんかはけっこうさくさくできるし上手に答えれる質なんで苦ではない。例えば…
覚せい剤を使うメリットは?」
はい。セックスがすごくいいんです。しかもネタをもってたら王様気分を味わえるし。理想的な自分に変身できます。人生のすばらしさを知れました。
覚せい剤を使うデメリットは?」
はい。お金を根こそぎにつぎ込んでしまいます。それから彼氏ができない(できたとしても覚せい剤使ってても構わないなんて奴だとロクなもんじゃない気がする)。そしてやっぱり本命は捕まってしまうかもしれない。もうこれにつきます。(まあこの質問への模範解答は全部テキストに書いてあるんだが。)
覚せい剤をやめるメリットは?」
はい。普通の生活(彼氏も含む)が手に入る(かもしれない)。そしてやっぱり捕まんない(また来た)。
最後の設問「覚せい剤をやめるデメリットは?」
...うーーん。覚せい剤をやめるデメリットって…...覚せい剤を使えなくなる!間違ってはないよな...うん。でもこれじゃ禅問答だ。
失うことで得るものはあった。けどそうして得たものであっても元いた場所に戻ってしまうんならまた手放さなければならない。両方欲しいなあ。そう思ってしまうのはアディクトのかわいさだなあ。そんなことが頭をぐるぐる回りだし、珍しく混乱してうまくこたえられなかった。なさけない。
帰りの電車で考えた。覚せい剤をやめるデメリットってなんなんだ?今はとりあえず使ってないから今の自分が感じている生きづらさみたいなものを考えればいんだろう。これといって今の生活に大きな不平不満はないんだけれど、なんかこのままぼんやりとした人生がずっと続くのかなあって。強いて言えばこの生温かい絶望みたいなものがデメリットなんだろう。けどこれどう伝えればいんだろう。やったことない人には絶対にわかんないだろうなあ。
ボクの中にはすぐに死にたがる太宰はいないけどぼんやりとした不安を抱えた芥川はいるようだ。そんな風に思ったところでちょうど電車は高田馬場についた。

 

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たった四回だけど修了証。

健康で文化的な最低限度の足るを知る生活

無理しなくていいとなるととことん無理をしない。ボクはそういう人間なのである。
例えば昨日。多分目が覚めたのは10時過ぎ。まず布団と枕の間あたりにあるであろうスマホをまさぐり探し当てる。だらだらツイッターを確認しながら目が疲れたらまた二度寝するみたいな自堕落をくりかえし、気づいたら12時はとうに過ぎている。
それでも起きあがるのはしんどい。ネットフリックスで時効刑事の続きを一話だけみる。このぬるい感じが起き上がるリハビリにちょうどいい。誰にも言いませんよカードが出てくる頃にやっと立ち上がる気力が出て来る。
どうにかこうにかシャワーをあびて、きな粉をたっぷりかけたグラノーラとネスプレッソマシンの楽ちんコーヒー。時間的にはしっかりランチだけど一日の初めの食事だから朝食っぽくなってしまう。
元気が出てきたぞと、ミスチルをBGMに腕立て伏せ。めんどくさい、きついという、感情とか思考をすっとばして、「ミスチルが聞える」⇒「腕立て」という認知行動療法的要領で行う。もういっかいもういっか~い♪って奮起させてきっと一日で唯一ストイックな時間帯だ。
さて何をしようと考える。今日の予定を今日考えて決めれるってとても素敵なことだ。
掃除は一昨日したし、昨日は衣替えをして冬物は全部クリーニングに出したし…今日は毛布と掛布団と枕とクッションをコインランドリーに持っていこう。
誰もいないコインランドリーの待ちあいスペースはお気に入りの場所のひとつだ。ここでなら義妹が送ってくれた自分じゃぜったい選ばないだろう小説もなぜだか読めてしまう。小説に飽きたら、スマホで意味のない自撮りをして意外によく撮れたとアイコンの画像に設定したり、ネットショッピングで母の日の贈り物を購入したり、それが母の日には実家に届かないであろうことを母親にラインで謝ったり、思うがままってすばらしい。そして乾燥機から布団を出したときに薫ってくるあのちょっと焦げたようなにおいでとりあえずの至福は完成する。
家に帰り、毛布はもうしまい込んでしまう。布団カバーと枕カバーをつけてふかふかにくるまれて借りていた松本大洋大友克洋とまんしゅうきつこを三冊読破。
頭を使うと小腹が減る。実家から送られてきたアボガドとトマトを使って冷やしうどんをつくる。麺つゆとオリーブオイルとたっぷりまぶしたいりごまだけでサイコーに美味い。
ブログのネタを考えようと、ウィーキングに出る。新しく買ってさっき届いたばかりのマスクをつけれるゼっと少しワクワクしながら山手通りを歩く。今日のBGMは高橋優。
二時間ほど歩けば体も頭も汗ばんで色々と可動域も広がる。家に帰ったらパソコンに向かって勢いのままブログを書き上げる。自我のマスターションですっきりさっぱり。
読みかけの図書館で借りていた「細い線」を湯舟につかりながら読み終える。(はーそうなっちゃうんですね…女はというか母は強いっすね)。
一日の〆は、ネットフリックスで「ナイトアース」。こういうネイチャー系大好きなんです。さすがに3時近くなると目が閉じる。クールダウンさせながらおやすみなさい。ああ今日は二食しか喰ってねえや...こんなんじゃいつまでたってもモテ肉つかねえなあ。まあいっか…そんな風になにかをいつも後悔しながら今日は終わっていく。
一昨日もこんな感じだったし、今日もきっとそう。明日だって似たような一日になるはず。自粛生活を有意義にって思う気持ちもあるけれど、自堕落で好き勝手で無意味だってけっこう充実してんじゃないのか。こんな風に自分の人生に対して親切な自分が好きです。健康で文化的な最低限度の足るを知る生活。これからも続けていく所存です。

 

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このレトロな空気がいんですよね。

恥の多い生涯だけど人間合格!

覚せい剤取締法違反で懲役に行ったので、ボクは出所後二年間、精神保健福祉士社会福祉士とは名乗れない。欠格事由ってやつだ。
「国家資格を失効した場合、元精神保健福祉士と名乗ることはありなんだろうか」。
そうつぶやいてみたら「元と名乗ることは恥ずかしいのではないか」というレスポンスがあった。
この「恥」という文字が胸に突き刺さった。ちょっと何も考えられなくなるくらいの鋭さだった。引き抜くのも痛い、そのままにしておくのもつらい。自分の中にどうにかうまく取り込みたくて外に歩きに出かけた。歩くと身体と一緒にこころもほぐれてくれる。考えをまとめたいときにはとてもいい。
歩きながら考えた。どの角度からみても恥の多い生涯を送ってきたはずなのに、どうも恥ずかしいという記憶があまりない。昔は、素通りされるのを誰かに見られたら恥ずかしいと、走っているタクシーを手を挙げて止めるのもできないくらいの自意識高い系男子だったのに…もうボクの中の太宰は消えてしまったらしい。
依存症の治療者たちは、依存症は病気であり恥ずかしいことではない。恥じないように、自分を責めないようにとやさしく教えてくれる。このやさしさに甘えて、自分を恥じることを忘れていた。恥じることは悪いことであるとさえ思っていた。そんな風だったから余計にこの「恥ずかしいのでは?」という指摘のインパクトが強かったんだと思う。
「依存症になることは恥ずべきことではない」というのは確かであろう。ただそれを拡大解釈して、依存症に付随したさまざまな問題ごとについても丸ごと恥ずかしがらなくていいと思い込んでいたフシがあるんだと気づけた。「恥ずかしがらなくていい」=「過去は何も間違っていなかった」。そんな風に恥を隠れ蓑にごまかしていたんだと思う。恥知らずとはよく言ったもんだ。依存症になったことと資格の失効は別の次元の問題である。(専門家の先生たちはそうではないという主張をしていることは知っているが超個人的視点として今回はこういう風に考えてみる)。資格をなくしてしまったという現実は、資格を大事にできなかったという事実である。就職活動がうまくいかない理由を資格のせいだとどこか思っていたが、要は資格を大事にできなかった過去のツケの問題なんだと思えてきた。
椎名町から山手通りを歩き、中野坂上の辺りでこんな風に考えはめぐりついた。坂上から折り返して東中野あたりでまではゲイはいないかと無意識に目が追ってしまい頭はいつも働かなくなる。(偶然、アディクトの仲間に会って久しぶりと旧交を温めた。さすがゲイタウン中野区!)。
今日のところの結論。恥がボクの人生を前に前にと進めてくれるのであれば進んで恥ずかしがりもしようがどうもそうは思えない質らしい。結局のところ「恥」がボクの今後の言動を左右することはないような気がする。そして恥うんぬんからではなく元精神保健福祉士と名乗ることもないだろう。だからといって精神保健福祉士だったことを隠すこともないと思う。それはこれまで自分がやってきたソーシャルワークが、やらかしてしまったことよりも全然上回っている自信があるからだし、これからも挽回する力を自分は十分にもっていると信じているからだ。よくも恥ずかしげもなくそんなことを言えるなあといわれそうだけど恥知らずなんだから仕方ない。
誰かのひとことが何かを考えさせてくれる。新しい考えを身に着けた自分は、新しい自分だ。もしかして独りよがりで浅はかで正しくはないのかもしれないけれど新鮮さという点でいえばナンバーワンだ。最新の自分で今日も眠ろう。

 

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夜の山手通は人がいなくて歩きやすい。
自粛中だからウォーキングバッド?

祝!獣系マッチングアプリ卒業

あまりにも時間を持て余したので久しぶりにゲイ向けの某獣系マッチングアプリに登録してみた。切羽詰まっていたわけではないが、もしかしてという気持ちが全くなかったといえば嘘になる。(実際、年もサバ読んで入力してるし)。結果から言えば特に収穫はなかったし、誰かの収穫になることもなかった。(まあもしあったとしても決してあったとは書かないであろうけど)。
これまでこのマッチングアプリを利用するときといえば大体キメセク相手を探すときだった。プロフィールを見るまでもなくアイコンの画像だけで何となくそれっぽい相手を察知する力がついていたのでサクサク相手を見つけることができていた。いらないシックスセンスだ。今回はそういうつもりではなかったのにアプローチしてくる相手は「今、いい感じ中ですか」「wicでやりとりしませんか」「変態さんですか」などとそれ系の方々ばかりだった。そんな誘いなんか一ミリもにおわせているつもりはないのに…。まだまだだなあ。
実に多くのゲイのスマホの画像フォルダは黒革の手帳と化しているように思う。その点、自分はきれいさっぱりとしたもんだ。いつ誰に見られても平気だ。過去に浸る手段を持ち合わせていない分、「あっ!この人懐かしいなあ」なんて見覚えのあるアイコンをチェックしながら少しセンチメンタルにひたっていた。
わかったことは、このアプリの対象年齢はせいぜい30代前半までだということだ。それ以上のものがやるにはハートがかなりタフでなければやってならない気がする。これ以上タフなる気はないし、なってはいけない気がしている。とりあえずこの連休でレベル5までいったところでアカウントを削除して退会します。さようなり〜。

 

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これからの四十代はどこで出会えばいいんだろう?

 

マスクで息ができない

どうしても電車に乗らなくてはいけない用事があり最寄りの目白駅へ出向く。
途中スーツケースをガラガラ押して歩く人をすれ違いながら「あーこの人は道中厳しい視線にさらされ、耐えてここまで来たんだなあ」って心の中で一方的にねぎらっていたら自分がマスクをしていなかったことに気づいた。出る直前まで玄関口に準備しておいたのにぬかってしまった。
改札入ってしまったし…。さてどうしよう。マスクをつけていない人を探してもどこにもいない。まあいたところでどうこうなるわけではないんだが。人前で裸になるのは全然平気なのにこいつはきつい。マスクを着けていない人がなるべく多そうな車両を探して乗ってみたが、なぜだろうそんなハードボイルドたちは高田馬場と新大久保で降りて行ってしまう。自分も一緒に降りようかと思ったが意味がないのでやめておく。
JRさんよ、マスクレをつけてない人専用車両っての作ってください。お願いします。自分がコロナに感染しているつもりで行動しなさいという啓発を守り、シートに座ってすごく体調悪そうなふりをして到着駅まで目をつむってやりすごす。マイノリティの気持ちを体験して見たければマスクを着けずに電車に乗ってみたらいいと思う。
目的地についてやっと息がつけた。呼吸って体と気持ちでするもんなんだなあって確認した。今、クスリ使ったらすごく効きそうだなあ。

 

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いまボクにできること。それが生きるということ。

自粛中にパチンコに行くなんて愚か者だ。
あけてる店もけしからん。
だったら晒せばいい。
背に腹。火に油。魔女狩り。さらし首。
悪いのは政治だ。
総理大臣がダメなんだ。ついでにその嫁もどうかしている。
諸悪の根源はコロナだ。
コロナは悪くない。
責めるならそれを広めた中国とWHOにしとけ。
もう誰かを責めるのはやめよう。
おいおい何言ってんだのんきな平和主義者さん。
悪者がいないと踏ん張れないのかい。
嫌な世の中になりましたねえお隣さんよ。

ちょっとペースが早すぎる。ウイルスの感染よりも関心事の発生頻度が早い早い。あーいえばこーいう意見の応酬についていくだけで精いっぱい。旗色を鮮明にしたいのに理解が追いつかない。もうちょっと事実に対して時間と距離をもつ余裕があればいいんだけれど。余裕をもてる場所ってどこなんだ。

本も映画も飽きてきた。
ミスチルがライブ無料配信してんだって。
Coccoも「おうちdemoトラック動画」ってやつをTwitterにアップしてる。
村上RADIOもある。最後には音楽なのかなあ。
芸のあるものはその芸で今やるべきことをやっている。
ボクに今できることってんなんなんだろう。
せっかく医療福祉の現場で働いてきたのに、この状況下を失業保険でやり過ごそうってのは違うだろう。
そんな声が聞こえてきた。
まだ見ぬ職場への履歴書を書こう。
何ができるかはわかんないけど、何かやるための準備はやっておこうと思う。

 

 

 


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彼はどうだったんだろう(もしくは彼女は)

別に怒っているわけではない。どちらかといえば感謝しているんだ。

ことの発端はツイッターを介してのダイレクトメッセージだった。見知らぬアカウントからのそのメッセージをボクはSOSだと理解した。

ボクが収監生活についていろいろツイートしてたから、その手の話に詳しいと思ってDMしたんだって。
違法薬物で逮捕されて今、その検査の結果待ちなんだそうだ。
実際に使ってたから検査結果は確実にクロになるであろうとのこと。
執行猶予中の再犯のため最終的に収監は免れないらしい。
相談する人もいなく、死んだ方がいいなんて言ってる。

そんなこと言われてもなあ…。さてどうしたもんか。
そもそもツイッターで相談ってどうなん?あやしくないか?
けど内容がえらくリアルなんだよな…
確かにこの収監間際の生殺しの状況ってメンタルやられちゃうんだよね。そしてそれが嫌なくらいにわかりすぎる。
死にたいって、ようは生きたいってことなんだろう?
このままにしておいたら寝覚めが悪い。
メッセージのやり取りをしながら、逡巡しながら、自分になにができるか考えた。

たとえ収監されるとしても今ここで誰かとつながっていることは大事だ。
一般社会に対してのプラスのイメージを少しでももっているかどうかで収監ライフは全然違ったものになるはずだから。
どこにつなげればいいんだ?自助グループは軒並み閉鎖中だし、弁護士会館もコロナの影響でやってない。法テラスは…刑事事件やってくれんだっけ?
とりあえず自分の知ってる弁護士さんを紹介しよう。漠然とした不安が具体的な不安に変わるだけでも心のもちかたは違ってくる。

弁護士の先生はこころよく引き受けてくれた。

その弁護士の先生の事務所に一緒に行こうと待ち合わせたのは池袋駅
当日、何故かわくわくしながら待っていた。だけど、わくわくがわくわくを超えることはめったにない。その悩み人は待ち合わせの時間になっても現れなかった。
今日はどうもキャンセルになりそうだと弁護士の先生に電話で伝えた。ボクだけ行っても仕方ない。ボクが使ったわけでも捕まったわけでもないんだから。
弁護士の先生は「実はこういったことって少なくないんですよ。気になさらないでください」って実にさわやかな態度だった。

一時間待ってみたが、握りしめたスマホは震えなった。空はとても晴れていた。

その人が来なかった事実に対する、弁護士の先生のストーリーは、そんなに珍しくないよくある話で終わった。
ボクは…、ボクはずっとこういうことをしたかったんだと気づけた。誰かのSOSをだれかに、どこかにつないで少しでも未来をよいものにするための手助けをしかたったんだと。今回は自分だけのわくわくだったけど、次は誰かと一緒にそのわくわくを共有できたらいいなあなんて思えた。ボクのストーリーは「気づき」と名付けることができそうだ。気づかせてもらえてありがとうだ。
じゃあその彼(もしかしたら彼女)のストーリーはどんなだったんだろう。気になるところだ。今回は頓挫したが、いつかどこかでだれかとつながれる物語だったらいいなあと思っている。もちろんつながる先がボクとじゃなくたってかまわない。

本当のソーシャルワーカーってのは四六時中援助のための準備ができているもんだ。もう一度同じようなことがあっても僕は同じようなことをするんだろうな。きっと。ということは結局よかったことだということなんだ。

 

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こんな空の日に相談なんてしたくないよな。