ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

恥の多い生涯だけど人間合格!

覚せい剤取締法違反で懲役に行ったので、ボクは出所後二年間、精神保健福祉士社会福祉士とは名乗れない。欠格事由ってやつだ。
「国家資格を失効した場合、元精神保健福祉士と名乗ることはありなんだろうか」。
そうつぶやいてみたら「元と名乗ることは恥ずかしいのではないか」というレスポンスがあった。
この「恥」という文字が胸に突き刺さった。ちょっと何も考えられなくなるくらいの鋭さだった。引き抜くのも痛い、そのままにしておくのもつらい。自分の中にどうにかうまく取り込みたくて外に歩きに出かけた。歩くと身体と一緒にこころもほぐれてくれる。考えをまとめたいときにはとてもいい。
歩きながら考えた。どの角度からみても恥の多い生涯を送ってきたはずなのに、どうも恥ずかしいという記憶があまりない。昔は、素通りされるのを誰かに見られたら恥ずかしいと、走っているタクシーを手を挙げて止めるのもできないくらいの自意識高い系男子だったのに…もうボクの中の太宰は消えてしまったらしい。
依存症の治療者たちは、依存症は病気であり恥ずかしいことではない。恥じないように、自分を責めないようにとやさしく教えてくれる。このやさしさに甘えて、自分を恥じることを忘れていた。恥じることは悪いことであるとさえ思っていた。そんな風だったから余計にこの「恥ずかしいのでは?」という指摘のインパクトが強かったんだと思う。
「依存症になることは恥ずべきことではない」というのは確かであろう。ただそれを拡大解釈して、依存症に付随したさまざまな問題ごとについても丸ごと恥ずかしがらなくていいと思い込んでいたフシがあるんだと気づけた。「恥ずかしがらなくていい」=「過去は何も間違っていなかった」。そんな風に恥を隠れ蓑にごまかしていたんだと思う。恥知らずとはよく言ったもんだ。依存症になったことと資格の失効は別の次元の問題である。(専門家の先生たちはそうではないという主張をしていることは知っているが超個人的視点として今回はこういう風に考えてみる)。資格をなくしてしまったという現実は、資格を大事にできなかったという事実である。就職活動がうまくいかない理由を資格のせいだとどこか思っていたが、要は資格を大事にできなかった過去のツケの問題なんだと思えてきた。
椎名町から山手通りを歩き、中野坂上の辺りでこんな風に考えはめぐりついた。坂上から折り返して東中野あたりでまではゲイはいないかと無意識に目が追ってしまい頭はいつも働かなくなる。(偶然、アディクトの仲間に会って久しぶりと旧交を温めた。さすがゲイタウン中野区!)。
今日のところの結論。恥がボクの人生を前に前にと進めてくれるのであれば進んで恥ずかしがりもしようがどうもそうは思えない質らしい。結局のところ「恥」がボクの今後の言動を左右することはないような気がする。そして恥うんぬんからではなく元精神保健福祉士と名乗ることもないだろう。だからといって精神保健福祉士だったことを隠すこともないと思う。それはこれまで自分がやってきたソーシャルワークが、やらかしてしまったことよりも全然上回っている自信があるからだし、これからも挽回する力を自分は十分にもっていると信じているからだ。よくも恥ずかしげもなくそんなことを言えるなあといわれそうだけど恥知らずなんだから仕方ない。
誰かのひとことが何かを考えさせてくれる。新しい考えを身に着けた自分は、新しい自分だ。もしかして独りよがりで浅はかで正しくはないのかもしれないけれど新鮮さという点でいえばナンバーワンだ。最新の自分で今日も眠ろう。

 

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夜の山手通は人がいなくて歩きやすい。
自粛中だからウォーキングバッド?