ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

すごい話を聞かせてもらった

そうですね。確かに売れなくなりました。

売上は四割位落ちたんじゃないでしょうか。

ちゃんと立っていてももう人がいないんです。

本郷の駅では東大生や東大関係の人か、ビジネスマンがこれまでの顧客だったんですが、リモートでの仕事になってみんな通勤しなくなったんです。

このままじゃあだめだと思ってどうしようかと考えました。

考えましたが打つ手はありません。

やっぱり自分には立つことしかできないなんだなあ。

誰もいなくても雑誌を持って立つようにしました。

これまでより一時間長く立つようにしました。

雨の日も立つようにしました。

自分にはこれしかできることはありません。

するとこれまでは見向きもしなかった近所の住民が「そんなにやってんなら買ってやるよ」と買ってくれました。

一冊、二冊、ひとり、ふたりと新しいお客さんが増えてきました。

見てくれてる人はいるんだと励みになります。

売上も少しずつですが戻りつつあります。

第三波だと聞きますが、これまでどおり自分は立つだけです。

 

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努力だけを武器にする人には何をも敵わない

そう教えてもらえた

ヤバ種から咲く花

HIVの電話相談のボランティアをはじめてもう一年になる。

HIVに感染したかもしれない」

かかってくる電話の主訴はだいたいが感染不安だ。

コロナ騒ぎがピークのときには相談件数も減ってしまい「HIV感染症の王様じゃなかったのか?ぽっとでのコロナなんかに圧されてどうするんだ!」と憤ったこともあったが、最近はまたもとの相談件数に戻りつつある。

いろいろな相談がある。

いろいろな人がいる。

みんな不安を抱えている。

少しだけでも電話を切ったあとに楽になってほしい。

そういう思いで受話器をとる。

 

「ゴムはつけていた」「フェラチオをされるだけだった」

こういった感染の可能性のない行為だったら「感染の心配はありませんよ」と安心を共有して受話器をおける。

だけど…「途中でコンドームがはずれてしまった」「お互いにオーラルはあった」

ってな場合だと話は違う。わずかであるが可能性はある。1パーセントにも満たないわずかな確率。それでも「絶対に大丈夫」という言葉を期待して電話をかけてくる迷い人にはそんな数字も意味のない慰めでしかない。症状では感染の有無は診断できない。初期症状は出ない人もいるし、あっても発熱、倦怠感、リンパの腫れなどよくあるものだから。確実なのは検査しかない。そして検査結果が出るまでの60日。この時間が本当につらい。漠然とした不安はしんどい。具体的な不安には具体的な解決がついてくるが、漠然とした不安は中腰の辛さとでも言えようか、とにかくしんどい。HIVになってしまったほうが、HIVノイローゼよりも楽に思えてしまうのもこういうことなんだろう。

ネットの世界には安心はない。極力スマホはみないように。

独りが一番良くない。どうしようもなくなったら遠慮せずに電話するように。

悩んだところで結果は変わらない。自分がリラックスできる時間をすごすように。

ボクにできるのはテンプレートの助言しかない。自分を安心させるように。

 

HIVはもう怖い病気ではない。医学の進歩のおかげで死の病ではなくなった。そのことをいくらわかりやすく説明しても「あなたはそういうけれど実際は違うんでしょう」と詰め寄られることもある。売り言葉に買い言葉。「そんなことはない。実際に自分も…」とカミングアウトで応酬するなんてことはしない。

だけども、ときに切実に、ときに真摯に陽性だった人の話を聞きたいという相談もある。そういうときには、自分がキャリアだということを打ち明けることもある。キャリアで生きることについて語るときもある。

以前はなるべくいいとこだけを伝えたいという「無理して」みたいなものがあった気もするが、最近はキャリアで生きるデメリットさえなかなか思いつかなくなってきている。

いい風に伝えようとしていい風な言葉でHIVを語り続けていたら実際にHIVについてのイメージがいい風に変わってしまった。やっかいだったHIVに添える言葉が変わる。ヤバ種からの芽吹き。きれいな花が咲きそうな予感。人間なんてかんたんなもんだ。

HIVだけど普通に生きている。ただそれだけが誰かの励みになる。その事実がむず痒い。かさぶたを剥がしたくなるあの感じ。ヤバ種に執着していたのはこの感慨を味わいたかったからなのか?んな馬鹿な。まあいい。

HIVじゃないから大丈夫」は伝えれなくても「HIVでも大丈夫」は嘘偽りなく差し出せることができる。これからもHIVの人生をいい風に上書きしていこうと思う。HIV(+)なんだからポジティブに生きなきゃね!

 

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学校で性教育バンバンやればもっと色々がいい風になるはず

焼け石に夜回り

 路上で生活している人たちの為に何かできないかと、月に一度夜回りをやっている。東京はその度に違う顔を見せる。

 ホームレス支援のボランティアの中でも夜回りは人気である。やってあげてる感がみたされるからなのかもしれない。

 路上で寝ている人へかける言葉がわからないボクは彼らに対して名前も所属も名乗らない。もちろんこちらからたずねたりもしない。「バイタルをはかる」「生活保護をすすめる」いろいろ手札はあるがみせない。「こんばんはー。夜回りでーす」と挨拶しながら距離をつめる。天気の話題程度のノリで体調を確認し、気休めの食料と路上脱出生活SOSガイドと名付けられた冊子を差し出す。黙って受け取ってくれると安心する。過去をなくし、未来をなくし、言葉をなくし、目の前の今だけに自分を横たわらせて生きている。明日を迎えるのに重荷になるようなものは渡せない。「ありがとう」も「どういたしまして」もない関係。今日と明日をつなぐ以外の縛りはここにはいらない。ぎりぎりで踏ん張って持ちこたえている人に「もう頑張んなくてもいいですよ」なんて言えるはずもない。

 何かができる。何かをしてあげよう。普段は巧妙に隠してある自身の高慢なおごりを夜回りは炙り出し、そして冷ます。ソーシャルワークの関係だけで信頼関係なんてあったもんじゃないよな。

 ボクらに気づいて笑うおじさんの目は差し入れの食材なんか一切見ていなかった。高速道路の下、轟音に負けることなく、とりとめもなく、終わりなく、楽しそうに政治家の悪口を続けるおじさんに「じゃ!今夜は」ってサヨナラを切り出せない。話せば話すほど、どこからが必要な支援で、必要のない支援はなんなのか。あいまいになっていく境界線。それは諦めなのか。それとも覚悟なのか。はたまた運命なのか。わからない。わかりたい。

 路上で生活している人たちの生き様を受け入れたい気持ちと路上生活者を生み出す社会を許せない気持ちの共存。誰かのために「もう寒い冬なんか来なくていい」と願うのははじめてかもしれない。

 今夜出会えた路上生活者はいつもより少ない。多くても少なくてもその事実をどう受け止めて良いかいつもわからない。オリンピック開催の影響でホームレスの人たちの数自体はずいぶん減ってきているらしい。数年後には生活困窮者は東京から締め出されるという物騒なうわさもまことしやかに流れている。きれいに舗装され頑丈に目張りされた夜の公園。光を当て、陰に暮らす人たちの居場所を奪う問答無用な感じに違和感をもてる自分に少し安心する。

 路上で生活をしている人からは教わることしかない。支援をいう形でお返しさせてもらいたい。学ぼうとする力が福祉の仕事の原動力だと夜回りのたびに確信する。

 

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ホームレス支援にはリュックが必須。

 

 

ギフト

 Give judgment-判決の言い渡しを英語ではこういうらしい。

 さて日本の裁判での判決は被告に対してなにを与えてくれるんだろう。期待したところでそんなにバラエティーに富んだギフトはない。無罪か有罪、有罪なら実刑か執行猶予か、その程度のバリエーションである。そして一度、被告となってしまえば、有罪ならばもちろん、無罪であったとしても、待っているのは世間の冷たい目である。裁判という存在そのものが日本においては非日常であるがゆえ、疑わしきは罰せずであるはずなのに、火の無いとこに煙はたたないと皆煙たがる。農耕民族の性なのか近代社会になった今でも村八分文化はしっかりと踏襲されているようだ。

 ボクが覚醒剤で逮捕されたときは、なるべく速やかに波音立てずことをすませてほしかったので法廷では判決だけが言い渡される簡易裁判を選んだ。実際に裁判自体は5分とかからなかった。前科持ちになることは社会人としての強烈な変化である。以前の自分にはもう戻れない。熱された金属が元素配列から変わってしまい全く別物になってしまうような絶対的変態化とも言えよう。今の日本において罪を背負うことは隠しごとをもつ人生を意味する。クローゼットゲイで隠しごとに慣れていたボクでさえも、また別人になんないといけないのかと少しうんざりした。

 

 そんなボクとは対称的にもう何年も裁判で戦っている人がいる。今日その裁判の報告会がオンラインで開催された。通称「ラッシュ裁判」。

 「悪いとわかって輸入しようとして、さらに裁判で争うなんて遵法意識がどうかしてるんじゃないか」そんな辛辣な意見もあるそうだ。気持ちはわからなくもない。自分もかつてはそうだった。覚醒剤で捕まるまでは覚醒剤が罪であることについて、罰を与えられることと依存症の回復との関係について何の疑問も持たずに生きてきた。人生って当事者になるまでは気づかないことの連続だ。

 世間が当たり前としている事象に違うんじゃないかと物申す。これは生半可な覚悟ではできない。だからこの「ラッシュ裁判」からは被告のヒデさんと弁護団の人生をかけてる切迫感がひしひしと伝わってきた。(ちなみに偶然にもこの弁護団の先生は自分の裁判の弁護人だったそんな縁がある)。傍聴した立場からコメントを言ってほしいと頼まれ「いいよ」と即答したのは、かつての自分の投影も少なからずあるだろうが、やはり共感が大きかったせいだ。

 

 とはいったものの何を話せばいいんだろう。覚醒剤とラッシュを比べてラッシュの無害さを訴えたところで、そもそも世の人は覚醒剤もラッシュも経験したことがある人は少なく、響くはずもない。第一、覚醒剤を使っていた人の言葉という世間のバイアスを覆すほどの説得力のある材料(見た目、知識、倫理観…)を残念ながらボクは持ち合わせていない(まあ欲しいとも思わないが)。

 主観を捨てた客観的データをどう伝えていければと意気込んではみたものの「覚醒剤は10日くらいは身体に残って尿検査でも陽性反応がででしまうけれど、ラッシュの使用で尿に反応なんて出ない。アルコールだって二日酔いってあるのに…」話しながら、なんか違うなあって思った。これは自分じゃなくても話せる。

 自分に話せること。…結局主観にもどる。

 「覚醒剤もラッシュもセックスドラックだ。だけど覚醒剤はセックスを越えて生活に食い込んでくる。ラッシュにその力はない。セックス時の使用にコントロールできるってことは依存性はないんじゃないか?」こういう話だったらいくらでもできるそうだ。ラッシュを使ったことのある人といえば、多分ほとんどゲイであろう。世間を当事者にする仕かけ。できることはなんなのか。もっと仲間が必要だ。

 

 個の話をすると、ボクは覚醒剤を使ったことも、捕まったこともすべての経験を今ある自分の血肉にできているという自負はある。後悔はないし、これでよかったとすら思っている。だからといって、そのうちいい風に変わっていくからと被告のヒデさんにリタイアを勧めようとも弁護団にタオルを投げる提案をしようとも思わない。おかしいものをおかしいと主張するドラスティックな姿勢を支持し続けたい。そこには矛盾はない。「I」と「We」、「You」と「They」。なんとなくだが分別がついてきた。今、はっきりといえるのは、この裁判の有罪判決は絶対におかしい。そのことだけだ。

 

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コメントの時なんて呼んだらいいですか?って言われて、逡巡した結果「ツイッターアカウントの淘汰でお願いします」と言いました。顔出ししてもまだ本名はちょっと...

生活保護は呪いのメッセージ。いっそ名前を変えてみてはどうだろう。

 ボクの今の仕事はホームレスの支援だ。したがって生活保護制度とは密接にかかわっている。今日の職場の勉強会は「生活保護」がテーマだった。

 2000年頃のボクの故郷である北九州市の話。生活保護を打ち切られた人たちが立て続けに餓死するというニュースを覚えている。日本がとうとう餓え死にする人を生み出す国になってしまったという現実は当時福祉の業界で働きはじめたボクには衝撃だった。

 生活保護という言葉には、剥ぎとる事のできない負のオーラがまとわりついている。蝕ばまれるのは受給者だけでない。ボクの同級生は大学を卒業して公務員になり、いきなり生活保護課に配属され、二年後に死んだ。自死だったと聞いている。その頃の北九州市の保護課には受給者数を一定にキープためのノルマがあったらしい。誰かを護るはずの制度が誰かを傷つける。

 生活保護の申請時には家族に連絡がいく。だれもそんな呪いの宿ったメッセージを届けたいとも思わないし受け取りたくもない。じゃあどうしてなくならない?家族による相互扶助の精神の押し売りの裏には「保護受けるんだったらこのくらいのいやな目にあってしかるべき」という世間の底意地の悪さみたいなものが隠れているように思えてムズムズする。 

 「一般の人たちに生活保護の問題をどんな風に伝えていけばいいのか」と誰かが質問した。「格差の広がる社会はどんどん弱っていってしまうという風に生活保護の問題を経済面での課題という切り口から説明するのも一つの方法」という解説をききながら、みんな自分の問題にならないと他者の痛みを想像(配慮)できないその事実にいら立つ。ボクはきっと青臭い。

 生活保護の不正受給は決してなくならないと思っている。制度というものはそういうもんなんだ思っているから。グレーな部分を受け入れる(それは諦める、許すというこということではなく)大きな態度というか、田沼の濁り的土壌が求められている気がする。不寛容さが安心安全を脅かす(不正受給を取り締まるあまり、必要としている人にそのサポートが行き届かない)のは本末転倒であるというロジックはシンプルな正論だと思うんだが、ただ正論ってのはいつも通じにくい…。生活保護がマウントをとりたい人たちのはけ口のようになっている。そこにはマウントをとることでしか満足できない社会・個人のメンタリティの闇が巣食う。

 日本で生きていくための最後のセーフティネットである生活保護制度。生活保護の話を聞いたあとは「これでオレも安心して人生で転ぶことができる」ってそう思えてしかるべきなのに...。実際は「生活保護は底辺のどん詰まり。ああはなりたくない。人生はしくじれない」と夢を追うのも尻込させる寂しい現実。これは個の問題でなく、社会(システム、文化)の問題だといつも思う。ボクに何ができるのか。社会は広く大きすぎる。やさしくない社会の現実から目を逸らさない覚悟。ホームレス支援に携わるということはそういうことなんだろう。

 

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生活保護になる」とよく耳にするが、生活保護はただの社会保障制度であり、故に「生活保護になる」という表現は実はおかしい。この表現は、人格を超えた(無視した)カテゴライズ化であり、そこには生活保護がもつ負のイメージが含まれる。つまりは差別用語なんだということを忘れてはいけない。

池袋ラブ(ホテル)ストーリー

 実は…実はという言葉で始まる打ち明け話にロクなものはない(つまらないということも含めて)ということはわかっているんだが、とりあえず「実は」ではじめてみる。

 実は、彼氏ができるまで誰ともやらないと決めていたんだが、就職が決まったことを言い訳にヤリ目の相手と会ってしまった。人は…もといオレなんて脆いもんだ。

 池袋のラブホテルで待ち合わせる。こんなチュエーションっていつ以来だろう。悪あがきだとはわかっていても軽く腕立てなんかしたりする。

 部屋に入ってくる年下のウケリバ。「オレで大丈夫?」「はい。ボクの方こそ大丈夫ですか?」「全然大丈夫っ」…大丈夫のリフレイン。こういうやりとりは身体が覚えてるんだろう。するすると通過儀礼的段取りは進んでいく。先にシャワーを浴びる。相手の子がシャワーから出て来るのを待つ間、少しだけ灯りをしぼり、ベッドに座る。さすがに握りこぶしを膝の上においてコチコチになたりはしないが、適度な緊張はある。

 身体を洗って頭をタオルで拭きながら出てきたその子は「あっ!ゴムはちゃんとつけてくださいね。」と確認してきた。自分としてはどっちでもよかったんで「あーあるよ」って答えると、彼は「実はあなたのこと知ってます。ブログ書いてません?HIVなんですよね。ちゃんとゴムしてくれないとね。こわいこわい」そう言った。「こわいこわいって福田和子かよ!」って突っ込みは心で止めておく。きっと知らない世代だ。

 ボクのチ○コは有能なはずだった。いざというときに勃たないなんてことはこれまで一度もなかった。TPOをまもれるやつだと絶対的信頼をおいていた。ところが…勃起しない。うんともすんともいわない。傷ついたのか?驚いたのか?とにかく僕よりもチ○コの方がデリケートだったみたいだ。いつも大事な場面では体の方が正直で、体がボクに大切なことを教えてくれる。

 上も下もそろって頭を下げたまま申し訳ないと平謝りでお開きにする。ボクのことを嫌いになっても、ボクのチ○コのことは嫌いにならないでくださいっ!って叫びたい気持ちだった。その子が帰ったあとボクはセンチメンタルに浸りながら、冷房をガンガンにきかせて、でっかいベッドに全裸になり大の字で横になる。今ごろになって勃起してきた。ボクはボクを慰めるようにマスターベンションをした。まさに自慰だ。ここまで生きてきてまだ体験したことのない場面に出会えた。

 明日は晴れらしい。ラブホテルから出るときに浴びる朝日って好きなんだよなあ。そんなことを思いながらその夜はゆっくり眠れた。

 ねっ、実は…ではじまる話ってやっぱりロクなもんじゃなかったでしょ?

 

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スタイリッシュよりも場末の方が好きです。

スマホを置いてドトールへ行こう

 仕事をはじめて約一か月。当たり前なんだができない事ばかり。その当たり前を当たり前と受け止めきれずに自尊心を消耗し続けてひとり疲れている。これだけ消耗してもなくならない自尊心に自分でも驚きだなんが、とにかくナルシズムに浸る時間が今のボクには必要だ。

 久しぶりの連休に仕事帰りに買った本と図書館で借りて来た本を二冊バッグにいれて、目白駅前のドトールに向かう。ついさわってしまうスマホは部屋に置いておく。スタバだと自意識が刺激されて居心地がよくない。ドトールくらいがちょうどいい。ソーシャルディスタンスのおかげ(?)で隣の席が確実に空いてんのもちょうどいい。目白駅前のドトールの二階のカウンターがお気に入りだ。動きのある(できれば人の顔がわかるくらいの)景色が読書にはちょうどいい。いつかそんな部屋に住みたいなあと思っている。

 日曜午後、目白通りを走る車たちは一度もクラクションをボクに聞かせることはなかった。すぐ下の停留所にとまった都営バスに間違って中扉から入ろうとしている外人さんを連れが引き止めている。あぁこれ自分も昔やって恥かいたなあ。どうでもいい景色。どうでもいい記憶。どうでもいい暇な時間をとことん無駄に過ごすことが明日へのやる気を養う。

 一冊はゲイが主人公の小説だった。ハッテン場の描写にあるあると頷きながら自分だったどんな風に描くだろうなあって想像したりして...。

ハッテン場は鮮度がものをいう。入って最初の30分が勝負だ。ナウシカ腐海に入る覚悟で挑む。入店当初はキラキラした粒子をまとって輝いていてもすぐに暗闇に浸食され馴染んでしまいバイオハザードのゾンビになる。暗闇で横から不意にあらわれるゾンビは本当に怖い。心臓が止まるくらい驚く(ここだけでは絶対に死ねないので必死で持ち堪えるが)。勃つモノものも勃たない。ゾンビになってしまうと蹴られても文句は言えない。蹴られるのは痛いし嫌だ。ハッテン場は時間と戦うゲイの人生の縮図だ。擬似体験の場なのかもしれない。みんな血眼で命がけで悲しい...

何かを表現するのに140文字以上もたない。息も絶え絶えな文章になってしまう。3分以上戦えない文系のウルトラマンみたい。ツイッターの毒は深刻だ。

数時間をコーヒー一杯(224円)で過ごせるのもちょうどいい。二冊とも読み切らず最後の一歩手前でやめておく。ナルシズムは家まで持って帰りたいタイプなんです。

 明日は年下の友達とメシの予定。いつかその子とキメセクするような気がする。期待ではない。もちろん予感でも想像でもなくただふっとよぎっただけ。こんなおだやかな日曜の午後なのに…まあ思ってしまうもんは仕方ない。さあ、そろそろ家に帰ろう。

 

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千葉雅也のデッドライン...世代も舞台も近すぎてリアルすぎて逆に嵌まりにくい。いつか彼の描くノンケ作品を読んでみたい。

 

マグマとジョーカー

ボランティアの語源はヴォルケーノつまりは火山。そこにあるのは義務でも使命でもなく沸き立つ思い。ただそれだけを頼りに行うものだと教わった記憶がある。

ボクも今、とあるHIVの支援団体でボランティアをやっている。自分がHIVに感染したときに色々と相談にもらった恩返しをしようと思ったのがきっかけだった。

去年の今頃だったかなあ。ボランティアをはじめるための研修を受けた。

あの頃は「自分がHIVであることも、薬物依存であることも、ゲイであることも、前科者であることも、丸ごと全部受け入れてくれない者にボクと関わる資格はない」となんとも高飛車な態度で生きていた。大上段に構えることでで自分を守っていたんだと思う。名前よりも先にジョーカーを相手側に晒して「あなたこのババ引けますか」と出会う人ごとに試していた。そりゃみんな逃げるわな。なんとも露悪的で自虐的、不器用すぎる生き方だ。(若干今もその名残はある)。

こんなこじれたボクを受け入れてくれたんだから大したもんだと思う。

当たり前とも違うし、無視でもない。そっけなくもないし、慣れているという感じでもない。ああそういう人なんだねという空気で迎え入れてくれた。

一年がたった。一年経っても、ボクはHIVだし、薬物依存症も治っていない。ゲイであり、前科もちのままだ。手札は何も変わらない。だけどジョーカーで相手を試すようなことは少なくなった気がする。ここではジョーカーは忌み嫌われない。晒したジョーカーを避けもせず、かといって引きもしない。そのまま抱きしめられた気分って言ったらいいのかもしれない。受け入れられた経験があったから拘らなくなったんだろう。大事なもののありかが変わった。つまりは美学の変化。

恩返ししたいと思っていたのに恩がまた増えてしまった。倍返しだ。

今日も雨。雨だけどボクの中のマグマは健在だ。ボランティア...楽しいと言ったら違うんだけど、面白い。誰かのためだけど誰かのためだけじゃない。自分のことを「なかなかやるじゃないか」と真っ直ぐストレートに認めてあげれる心地よさ。

繰り返すけど大したもんだと思います「ぷれいす東京」。今日もよろしくお願いします。

 

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ハメ撮り好きな君へ告ぐ

あなたは誰なんだ?

主演なの?

助演なの?

監督なの?

プロデューサーなの?

それともただの観客(ファン)なの?

それでいいの?

そんなに器用じゃないだろ。

 


セックスって何よりも今を大事にする行為なんだって忘れちゃいないかい。

今を楽しめていますか?

楽しめきれてないから撮ってんだってなんて言うんだったら殴るよ。

今のオレじゃなくて、誰を見てるんだって話さ。オレの顔にモザイク処理してネットにアップしていったいどこ見てんだよ。なにが見たいんだよ。

ホントは知ってる。君が見ているのは、オレでも、動画の視聴者でもなく自分なんだろ。

歪んだマスターベーションに使われたくなんかないな。

左脳だけを使ったセックスなんてつまんなくないかい。

右にも左にも偏っちゃーいけない。

脳はコントローラーなんかじゃない。純粋な性感帯なんだ。

だってボクは君に集中するただの前後運動だけでいつだって高くとても高く飛んでいけるんだから。

その全てを切り取れる自信があんだったら撮ってもいいよ。そして是非見せてほしい。

 

 

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全裸監督目指せなんて言わないが...できないんだったらやめろよとは言いたい。

RUSH裁判に行ってきた その2

RUSH裁判の判決は「懲役一年二カ月、執行猶予三年」だった。
ほとんど覚醒剤事犯と同じである。
覚醒剤とRUSH、どちらも体験したことのある身の上からしたら重すぎるというのが正直な感想だ。(だったら覚醒剤の罰をもっと重くすればいいって言われそうだが...)。どちらも依存性があり、セックスドラッグという共通点はあるが、RUSHはメリハリをきかせたセックスライフのための小道具的存在どまり。あればいいな程度でなければなくてもいい。比べて、覚醒剤をつかった性行為(俗にいうキメセク)は、知ってしまえばもどれない。シラフのセックスが物足りなく思えてしまう。ボクの場合、シラフのセックスができるかどうか未だにわからない。そのくらいの影響力がある。睡眠欲、食欲、性欲にガツンと直撃して生活を狂わす。RUSHにそこまでの刺激はない。セックス以外でRUSHを使っているなんて話聞いたことがない。セックスのときに限って使えるようにコントロールできてるってことからもRUSHの依存性ってその程度のものだと言えるんじゃないんだろうか。
覚醒剤にはまるようなドラッグ大好き人間が「RUSH裁判の有罪はおかしい」と声高に叫んだところで、結局あなたはラッシュが好きだから擁護してんでしょうって言われるだろうってことは百も承知だけど…やっぱりおかしいなあって言いたい。
RUSHも覚醒剤もどちらも好きだが、まあ覚醒剤は全面的に解禁してほしいとは言い切れない...。どんな社会になるか想像するとちょっと怖くなる。アングラでコソコソと、スリップした時のためくらいのものでいいかな。だけど「RUSHは全く問題ない」ってのが超個人的実体験から醸し出された見解だ。

RUSHが国内で手に入らなくなってから個人輸入していたころ、税関対策のため業者にはRUSHの瓶を購入したいと書いて注文をしていた。もし税関が何か言ってきても「ボクはラッシュの瓶のコレクターなんです。瓶だけを注文したのに…困りましたね」っていざというときの言い訳を考えて脱法する気満々だった。結局そういう指摘をされることはなかったんだけど。
こういう風に書くとそこまでさせてしまうんだからやっぱりRUSHには強烈な依存性があるんじゃないのかって突っ込まれそうではあるけど。正しくは「RUSHへの執着はセックスを楽しもうとする欲」であり、薬物依存というよりも性依存に近いものである。
性依存は医療の分野。どんな性行為に倒錯するかは倫理の話。法律の出て来る幕はない。
カミングアウトしていないゲイにとってゲイであることを実感できる手段はセックスしかない。おのずとセックスにこだわるようになってしまう。よりよいセックスのためにはRUSHの輸入のリスクもいとわない。RUSHの問題からはセクシャルマイノリティの生きづらさが見えてくる。

判決は被告が次の一歩を前に進むため背中を押してくれるものであってほしい。しかしながら、いまの日本社会はそうではない。判決自体が罰になり、スティグマ化する。
ボクは刑務所で数年すごしたが、あの高い塀の中と今の生活とをうまく繋げることができない。ましてやあの塀の中に入る前の生活とつなげることなんてもっと難しい。一つの人生なのに三つに分断されている。覚醒剤は生活を狂わすかもしれないが、法の裁きは人生を狂わす。裁判官は情状酌量という言葉を使ったが、それならばよけいにこの裁判では無罪が妥当だと思った。

 

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この画像がトリガーになるなんてないだろうから載せてみた。

RUSH裁判に行ってきた その1

例えば、助かる見込みがわずかだとして、一か八かの手術に挑むとして、さてどうしよう。最新設備の整った病院のドクター、腕に評判のある人気のドクター…確実に治してくれそうな医者を死に物狂いで探して探して探して、最後の最後に選ぶのは、「うまくいかなくてもこの人でダメなら悔しいけど仕方ない」そう思える相手に託すんじゃないかなあ。覚悟を預けれる相手に執刀してもらいたい。すっきりとした死ぬ気でオペ室に運ばれたい。そんな風に思うんじゃないかと思う。
判決が納得いかないものであったとしてもともに立ちむかったことに価値はある。そんな風にゆだねることのできる弁護士がいい。
RUSH裁判の判決を傍聴してきた。判決を聞きにきたというよりも被告人と弁護団のドラマを見に来たような感じだった。
コロナウイルスの影響で傍聴席の半分以上はメバリがされて座れなくなっている。おかげで遅れてきた関係者の何人かは部屋に入ることができなかった。
宣告のときが来た。まな板の上の鯉。手術も裁判もよく似ている。証言台の前にたって宣告を受ける瞬間。自分が自分のものでなくなってしまう。すこしフラッシュバックを覚えた。部屋中の見えない空気が、被告人と弁護団のこれまでの時間が、ぐるぐると渦巻いて頭上に集中し被告人の中に吸い込まれていくのがみえる。
「主文、被告人を懲役1年2か月に処す。ただし、刑の執行を3年、猶予するものとする」
今日この場所に集まっている者の多くがRUSHで有罪になるのは不当であると信じている。その思いは法律的判断で違うと一蹴される。だけどその絶対的判断に対しても「ぜんぜんわかってもらえてないや」って感覚が残る。たぶんみんなそう思っているんだろう。中学校の時、武道場に座らせられて体育教師からの理不尽な訓告を聞きながら意地でも納得してなるものかと膝をじっと見つめてたあの感じによく似ていた。全くすっきりしない空気感があたり一面に充満していた。エンディングの雰囲気ではない。判決はドラマの終わりを意味しない。いろいろと受け止めきれない感情の中でこれが最後ではないということだけはしっかりと伝わってきた。

 

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勝手にシンダンバッド

 「こんな時期に賭けマージャンをするなんてギャンブル依存症に決まってる」
 「ところかまわず性行為にふけるなんてセックス依存なんじゃないか」
 ツイッターなんかで、会ったこともないであろう有名人について第三者が診断しラベリングするのを見ると怖くなる。確かに診断はその人の肩書のひとつでしかないんだけれど、精神疾患(特に依存症)への理解が十分に成熟してない社会においてそのラベリングは危険すぎるんじゃないだろうか。しかもその病気(とその病気への社会の無理解)で苦しんできた経験のある当事者やその支援者による診断(病名の決めつけ)ツイートも少なくない。怖いなと思った。
 ソーシャルワーカーだったからなのか診断(病名をつける)という行為にすごく抵抗がある。診断は医療行為であり、福祉職であるソーシャルワーカーがそこに手を出すべきではないという価値観のなごりだろう。診断がつくことでその相手にスティグマを課してしまうんじゃないか...そんなふうに思っていた。なんてことはない専門職としての無知と偏見と怠慢だ。
 今はどうだろう。少しだけ知識と経験をつんで自分の援助にも自信をもてるようになってきた。限りある時間を有効的に使って支援するためにソーシャルワークが診断の補助になってもいいのではないかという気持ちが今は少しある。だけど診断できてしまうことが福祉職の理念を見失わせてしまいそうで怖いという気持ちはやっぱりぬぐえない。誰かをカテゴライズするってのはある種甘い快感をともなう。その甘さはとても危うい。調子にのらないように注意している。
 無意識な診断も怖いが、作為的な過剰診断も同じくらい質が悪い。実際にギャンブル依存や性依存を社会問題化させ認知を広めていくというような戦略もあるように思える。診断名を独り歩きさせ、精神医療やある一定の支援者の職域を拡大させる。そういう大義の果たし方もあるのかもしれない。だが、誰か有名人一人をスケープゴートにするやり方、つまりは誰か一人の犠牲の上に成り立つ平和なんて違うんじゃないかという青臭い正義漢がボク中にはまだ存在する。
 治療あっての診断だろう?診断で終わってしまうような診断ならすべきではないんじゃないか。レッテルはっておわりなら誰でもできる。専門家として診断したのならその後のフォローまできっちり責任をもとうよ。そんな風に思うんだが…こういうのってやっぱり青臭いのかなあ。とにかく今ボクにできることは誰かの診断なんかじゃなく自分のナラティブを語ることなんだと思っている。

 

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手相診断。病名は「人前でタクシーを手をあげて止めれない症候群」。

HALTの謎

 今回の薬物治療プログラムは「あなたのなかにある引き金」ってタイトル。なんかサイコサスペンス映画っぽい。そこにハルト(HALT)は登場してきた。「ハルト」にはゆかりがある。子供の名前の候補の一つだった。温かい人と書いて温人(はると)。うん、いい名前だ。ボクの苗字との相性はよかったんだが、配偶者の苗字とのマッチングがいまいちだったため結局泣く泣く却下になってしまった。(一応離婚して子供が相手の苗字になったときのことまでリスクマネジメントして名前は考えていた)。少しセンチメンタルな幕開けのプログラムだった(うそです)。
 テキストではクスリを再使用する内的な引き金として、HUNGRY(空腹)/HAPPY(幸せな気分)、ANGRY(怒り)、LONELY(孤独)、TIRED(疲労)に注意すべしと喚起している。その頭文字をとってHALT(ハルト)。ハルトには気をつけろ。要するに、使わないためには「腹を空かすな」「腹を立てるな」「孤立するな」「疲れるな」ってことらしい。

HUNGRY(空腹)
 たしかになあ、空腹はやばい。このプログラムでもさんざんぱらクスリについて話すんで、帰りについ使いたくなってしまうってことがある。そういうときは大概腹が減っている。お腹からのグーグーは心のSOSなんだと思う。だからとりあえずプログラム前には満腹で参加するように注意している。満腹って大事。
 たまにぐわ~んと津波みたいに襲ってくる渇望のときにはいつもサイゼリアに駆け込む。そして、辛味チキンとミイラの風ドリアとエスカルゴのオーブン焼きとペペロンチーノをかっ食らう。ジャンキーだったボクにとってサイゼリアは何日も寝ずにやりたおしたあと、体力を回復させるための栄養補給の場であることに加えて、締めの儀式的意味合いをもつ聖地だった。ここに行けばこのクールはもう終わりだという気分になれた。だからどうしても使いたくなったときには先にサイゼリアに行き、満腹になって気持ちだけ締めてしまう。ボクなりの対処法だ。
 まあキメセクをするには「腸腸腸E感じ♩」にしておかなきゃいけないんで、内臓の縦のラインを空洞化させておく必要があるから何か食べたら使えなくなってしまうってことで「食べる」は最もてっとり早く効果的回避法なんです(結局また下ネタかよ)。

HAPPY(幸せな気分)
 きっと覚醒剤にはまる人ってカリカリ残業して休日出勤も厭わず24時間戦います的日本人なんだと思う。休みの日には自宅のソファーでゆったりくつろぎたいなんていう血中アメリカ人濃度の高い人には大麻とかマリファナが向いてんじゃないかなあ(ノーエビデンス)。だからハッピーな気分と覚醒剤ってのはなんかあわないような気がする。とりあえずボクには当てはまらない。幸せなときは「もうその幸せだけでいいじゃん」って感じ。

ANGRY(怒り)
 ボクには怒りの才能がない。怒らないという訳ではないがとにかく持続しない。まあいいことなんだと思う。怒ってる人を観察したりするとつい冷静になってしまう。今の世の中見渡す限り怒れる人だらけ、怒りの達人ばかりだ。そういう人達に支えられて今日もひょうひょうと生きれている。とにかく怒ってるときに覚醒剤に使うとバッド入りそうでやなんです。気持ちも体調も万全に整えてから使いたい派なんです。

LONELY(孤独)
 なんかのドラマのキャッチコピーで「寂しくない大人なんていない」ってのがあったけど孤独ってあたりまえだと思ってるからこれも自分には関係ない気がする。孤独ってなるもんじゃなくて身の内に抱えるもんでしょう。寂しくたって寂しい人になる必要はないし、孤独だって孤独な人になる必要はない。つまりは孤独はいいけど孤立は避けようってこと。
 確かに薬をもってたら王様気分を味わえるだろうけどそんなのかりそめだし、孤独向きの体質じゃない人だとそのあとで目の当たりにする現実との落差がもっときついかもって思う。孤独から逃げたくて覚醒剤に走ってもさらに孤独になるだけ。わかってるんだけどね。

TIRED(疲労
 ただ疲れたってときじゃなくて、達成感を伴う疲れは要注意だ。ご褒美的に使ってしまいがちだった気がする。24時間働くビジネスマンでしたから。こころあたりありすぎ。「よくがんばったじゃないか」って自分への大儀名分までしっかりついてしまうからなあ。やばいよ…。

 プログラム中こんな風に語ってみたら、自分のことを研究されつくしてますねって言われた。スマープって「自分ふしぎ発見」って言い換えてもいいと思う。自分大好き人間のボクとしては面白く過ごせる時間だ。ただ問題がひとつ。いくら自分のことがわかっていても覚醒剤はやめられないという事実。これだけ勉強したんだから「もうつかわない自信がついた」じゃなくて「今度こそうまく使えるんじゃないか」って風に思ってしまう。ほんと懲りない自分ふしぎ発見だ。
 そんな風に好き勝手に覚醒剤への揺れる熱い想いを語っていたら、最後にノンケ君が「なんかそんなに覚醒剤を楽しんでる話を聞くとうらやましいなあと思って…オレはあんま楽しいって(思って)使ってこなかったし…。覚醒剤のよさをまだ知らない気がする。…オレもアナルセックスしてみようかなあ」ってとんでもアンサーを!自分の話を聞いて「クスリをやめようと思いました」って言われるよりも正直嬉しいと思ってしまった。自分も誰かの役に立っているという実感。いい時間を過ごされてもらった。なんかこんなんでホントすみません。

 

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幻の諭吉たち

刑務所にいたときに、ココカラファインのレジ袋に県民共済のちらしを入れていくという作業があった。独房でひとりきり黙々と封入していく。作業自体は単純でなにも難しいことはない。自我を捨てサクサクやればいいだけの話だ。だけどこの作業が苦手だった。感情がどうしても捨てられない。なぜならばボクにとって県民共済は因縁の保険だからだ。
けっこう長い期間県民共済に入っていたんだが、逮捕されて収監されることがわかった瞬間(なるべく出費は抑えなければいけないと思い)速攻解約した。解約した直後にHIVの感染がわかった。あーあ。作業の合間に約款を見てみると自分の障害等級ならば200万円…その金額がいやがおうでも頭に浮かんでしまう。そこから、お金にまつわるあれやこれやがループし始める。懲戒免職で十年以上働いた数百万の退職金がパーになったこと。CD4が100なかったあの時期に収監されずに障害厚生年金を申請していたら毎月十万以上の給付がもらえていたこと。障害者手帳も一級だった可能性もあったこと。そうなったら医療費の自己負担も無料になる生活になってたであろうこと。後悔後悔後悔。無知は罪とはいうけれど、知らなきゃよかったとソーシャルワーカーとしての社会資源の知識を恨んだ。そんな風に一日中お金に執着する自分の銭ゲバっぷりに疲れてしまうのでこのちらし入れの作業はつらかった。
出所したあと、更生保護施設に入所したんだが、そこのソーシャルワーカーさんに「あなたは一度ほんとうのお金の苦労をした方がいいと思います」って言われた。たしかにそれまでの人生でお金に苦労したことがなかった。キャリアと経験を鑑みても稼いでいた方だと思う。反動で今は人生で一番の極貧かもしれない。人生ってよくできている。まあそれでも失業給付金に支えられたギリギリの生活だってそんなに悪くないと思っている。チョコレート一枚を買うのにも値段と味を逡巡しつくして選んだり、少し遠まわりになっても都営パスを使って少しでも安くあげれるルートを探したりだとか、そういう暮らしを結構楽しんでいる。今の自分に本当に必要なものなのかというフィルターをかけてから財布に手をかける。悪くない習慣だ。楽しめる苦労は本当の苦労ではないのかもしれないがそんな毎日だ。
金が全てじゃないなんてきれいには言えないわ♫ってホントだよね。まだたまにあの日手に入ったはずの幻の諭吉を夢見るときもある。けどお金はそんなになくてもいんじゃないかとも同時に思えている。不思議なもんだなあ。宵越しの金はもたねえぜって言い切れるほど江戸っ子気質はないけれど、体力と財力はゼロで死ぬのが目標だ。

 

 

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お金じゃないってちょっと思ったり思わなかったり

 

 

 

 

 

もう、うんこじゃない

はじめはうんこだった。
ブログもツイッターもうんこだった。
大きいか小さいかの違いだけで出してスッキリするためのうんこだった。
「今日はいっぱい出た」とか「今朝のはでかかった」とか「かたくてしんどかった」とかそんな感想だけだった。‪

最近はちょっと違う。
形や匂いなどの「出来」を気にするようになってきた。
なんか自分の理想みたいなものが入魂されるようになってきた。
例えば、覚醒剤について語るときは出来るだけ怖いとか危険とかそういうイメージにつながるような言葉は使わないように気をつけたり。
例えば、依存を克服しようとしている人の足をひっぱる可能性がありそうな酎ハイの缶の画像は削除したり。
例えば、欲求なんかは正直ここのところないんだが、渇望に苦しむアディクトの姿をちょっと大げさに(面白ろおかしく)書き出してみたり。

興味の対象のベクトルが自分から外に向き始めているんだと思う。
何かしたいと思っている。社会に対して何かしたいと思っている。
覚醒剤依存、HIV、ゲイ、前科…そういう問題に少しでも日があたればいいなあと思う。アングラな世界から引き出したいと心から願う自分がいる。
アカデミックなことや社会運動は向いてない。
じゃあ何ができる?
自分の体験を少しでも文章にして伝えることが自分にできることなんじゃないだろうか。自分の物語なんだから正しいも間違いもない。

もっと知りたいなあと思う。
もっと読みたいなあと思う。
もっと聞きたいなあと思う。
もっと話したいなあと思う。
昨日のこと明日のこと。今日出来ること。
もっと勉強したいなあと思う。
そして誰かと一杯飲んで笑いたいなあと思う。

 

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