ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

生活保護は呪いのメッセージ。いっそ名前を変えてみてはどうだろう。

 ボクの今の仕事はホームレスの支援だ。したがって生活保護制度とは密接にかかわっている。今日の職場の勉強会は「生活保護」がテーマだった。

 2000年頃のボクの故郷である北九州市の話。生活保護を打ち切られた人たちが立て続けに餓死するというニュースを覚えている。日本がとうとう餓え死にする人を生み出す国になってしまったという現実は当時福祉の業界で働きはじめたボクには衝撃だった。

 生活保護という言葉には、剥ぎとる事のできない負のオーラがまとわりついている。蝕ばまれるのは受給者だけでない。ボクの同級生は大学を卒業して公務員になり、いきなり生活保護課に配属され、二年後に死んだ。自死だったと聞いている。その頃の北九州市の保護課には受給者数を一定にキープためのノルマがあったらしい。誰かを護るはずの制度が誰かを傷つける。

 生活保護の申請時には家族に連絡がいく。だれもそんな呪いの宿ったメッセージを届けたいとも思わないし受け取りたくもない。じゃあどうしてなくならない?家族による相互扶助の精神の押し売りの裏には「保護受けるんだったらこのくらいのいやな目にあってしかるべき」という世間の底意地の悪さみたいなものが隠れているように思えてムズムズする。 

 「一般の人たちに生活保護の問題をどんな風に伝えていけばいいのか」と誰かが質問した。「格差の広がる社会はどんどん弱っていってしまうという風に生活保護の問題を経済面での課題という切り口から説明するのも一つの方法」という解説をききながら、みんな自分の問題にならないと他者の痛みを想像(配慮)できないその事実にいら立つ。ボクはきっと青臭い。

 生活保護の不正受給は決してなくならないと思っている。制度というものはそういうもんなんだ思っているから。グレーな部分を受け入れる(それは諦める、許すというこということではなく)大きな態度というか、田沼の濁り的土壌が求められている気がする。不寛容さが安心安全を脅かす(不正受給を取り締まるあまり、必要としている人にそのサポートが行き届かない)のは本末転倒であるというロジックはシンプルな正論だと思うんだが、ただ正論ってのはいつも通じにくい…。生活保護がマウントをとりたい人たちのはけ口のようになっている。そこにはマウントをとることでしか満足できない社会・個人のメンタリティの闇が巣食う。

 日本で生きていくための最後のセーフティネットである生活保護制度。生活保護の話を聞いたあとは「これでオレも安心して人生で転ぶことができる」ってそう思えてしかるべきなのに...。実際は「生活保護は底辺のどん詰まり。ああはなりたくない。人生はしくじれない」と夢を追うのも尻込させる寂しい現実。これは個の問題でなく、社会(システム、文化)の問題だといつも思う。ボクに何ができるのか。社会は広く大きすぎる。やさしくない社会の現実から目を逸らさない覚悟。ホームレス支援に携わるということはそういうことなんだろう。

 

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生活保護になる」とよく耳にするが、生活保護はただの社会保障制度であり、故に「生活保護になる」という表現は実はおかしい。この表現は、人格を超えた(無視した)カテゴライズ化であり、そこには生活保護がもつ負のイメージが含まれる。つまりは差別用語なんだということを忘れてはいけない。