ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

勝手にシンダンバッド

 「こんな時期に賭けマージャンをするなんてギャンブル依存症に決まってる」
 「ところかまわず性行為にふけるなんてセックス依存なんじゃないか」
 ツイッターなんかで、会ったこともないであろう有名人について第三者が診断しラベリングするのを見ると怖くなる。確かに診断はその人の肩書のひとつでしかないんだけれど、精神疾患(特に依存症)への理解が十分に成熟してない社会においてそのラベリングは危険すぎるんじゃないだろうか。しかもその病気(とその病気への社会の無理解)で苦しんできた経験のある当事者やその支援者による診断(病名の決めつけ)ツイートも少なくない。怖いなと思った。
 ソーシャルワーカーだったからなのか診断(病名をつける)という行為にすごく抵抗がある。診断は医療行為であり、福祉職であるソーシャルワーカーがそこに手を出すべきではないという価値観のなごりだろう。診断がつくことでその相手にスティグマを課してしまうんじゃないか...そんなふうに思っていた。なんてことはない専門職としての無知と偏見と怠慢だ。
 今はどうだろう。少しだけ知識と経験をつんで自分の援助にも自信をもてるようになってきた。限りある時間を有効的に使って支援するためにソーシャルワークが診断の補助になってもいいのではないかという気持ちが今は少しある。だけど診断できてしまうことが福祉職の理念を見失わせてしまいそうで怖いという気持ちはやっぱりぬぐえない。誰かをカテゴライズするってのはある種甘い快感をともなう。その甘さはとても危うい。調子にのらないように注意している。
 無意識な診断も怖いが、作為的な過剰診断も同じくらい質が悪い。実際にギャンブル依存や性依存を社会問題化させ認知を広めていくというような戦略もあるように思える。診断名を独り歩きさせ、精神医療やある一定の支援者の職域を拡大させる。そういう大義の果たし方もあるのかもしれない。だが、誰か有名人一人をスケープゴートにするやり方、つまりは誰か一人の犠牲の上に成り立つ平和なんて違うんじゃないかという青臭い正義漢がボク中にはまだ存在する。
 治療あっての診断だろう?診断で終わってしまうような診断ならすべきではないんじゃないか。レッテルはっておわりなら誰でもできる。専門家として診断したのならその後のフォローまできっちり責任をもとうよ。そんな風に思うんだが…こういうのってやっぱり青臭いのかなあ。とにかく今ボクにできることは誰かの診断なんかじゃなく自分のナラティブを語ることなんだと思っている。

 

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手相診断。病名は「人前でタクシーを手をあげて止めれない症候群」。