ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

ピアサポートを高らかにうたってみた

ボクはこれまで障害者のピアサポートに対して熱心なタチではなかった。当事者同士のサポートという隠れ蓑を使って、支援者が当事者を巧く安く都合よく利用しているだけなんじゃないかと懐疑的ですらあった。(今もそういう気持ちはある)。ビジネスの匂いがぷんぷんしてうさんくさく思えた。加えて、声を上げる当事者の後ろにはブレーンというかパトロンというかそういう支援者の存在があり、その正しくて間違っている共依存支援関係をうまく自分に説明できない感じが嫌だった。そこらへんの清濁を全部飲み込んだうえで賢く自らの主張に転嫁できるようなしたたかな当事者もはあまりいなかったし…。つまりボクはピアサポートの理想形を持ち合わせておらず、どうピアサポートを展開していいのかわからなかった。

こういった表向きの理由のほかに、PSWとしてのアイデンティティクライシスへの不安もそこにはあった。病院、施設…、これまでの働いてきた現場では専門家と呼ばれる者の支援におまけのように自助グループなどのサポートがついてくるようなスタイルが主流だった。いやどちらかといえば、自助グループなしのプランの方がばかりだった。ところがアディクションからの回復においては自助グループでまずトライしてみて補助的、補足的に専門家が介入するパターンがほとんどである。サービス利用計画書、個別支援計画書も自助グループありきでつくられる。支援者がイニシアチブをとらない(とれない)支援。けっこうなカルチャーショック。知らず知らずのうちに支援は支援者のものという間違った価値観が身についていたことを直視させられた。NAミーティングに参加する自分に同行してくれたかつての職場の後輩PSWがミーティングが終わってから「ここ(NA)には私たち(PSW)はいらないですね」とぽつねん。だよなあ。自分も支援者として参加していたらそう感じただろうなあ。

実際のところ当事者は当事者で旧態然とした当事者だけのサポート体制から次の展開を模索しはじめてるし、故に専門家の存在を求めているように感じる。また当事者以外のサポートがあるからこそピアとしての存在価値や一体感が強化されるという側面もあるので、怖がる(クライシスに陥る)必要はないんじゃないか。

今後、アディクション以外の分野においてもピアサポートは台頭してくるのだろうし、そうなるべきだと思う。支援の本質を学べる機会がアディクション支援にはある。援助職は一回依存症支援をやったほうがいんじゃないか。

ピアサポートを考えるとき、今一番思うことは自分自身の当事者性についてである。アディクションにしろ、HIVにしろ、ゲイにしろ、前科者にしろ明らかにボクは立派な当事者である。だけどもまだどこかピンときていないというか。身体でも精神でも障害者手帳を取得したとして「はい!今からあなたは障害当事者になります」と言われても「あーそうなんですか」としか答えることができないように。(これは決して自分は当事者とは認めたくないとか、障害者が嫌だとかいうわけではなく)。

仮にボクが誰かの支援をしてみたとして、それをピアサポートとよんでいいのか。それは違うんじゃないかという気がする。

きっと変わっていないことが原因なんじゃないかなあ。障害になったことで大きく何かを失ったり、損なったりしていない(それを自覚できていないことも含めて)。それがないから学びもないというか…。障害やスティグマに対峙して自分の人生をどう切り開いていくのかを直視していないものによる支援はピアサポートと呼ぶにはふさわしくないのではないか。

こんな風に書きながら「はて、PSWになる資質に自分の人生を切り開くうんぬん言われたことがあったろうか」「いやなかったはず」「どうしてピアサポートにだけそれを課そうとするのか」「必要ないだろう」「でもだとしたら傷のなめあいのようなサポートになるぞ」「それの何が悪い」ぐるぐる回って今の境地。

具体的な援助は専門職にやらしておけばいい。彼らはそういうの好きな人たちなんだから。ピア活動の対象はやはり社会にある。つらいもの同士のつらさだけのつながりは誰も救わない。主観的負(障害)の体験だけでなく、正(再生)の体験を武器に社会にアプローチできてこそのピアサポートなんだと思う。かすかな希望の匂いをピアサポーターは与える存在なんじゃないか。そこにピアの存在理由はある。

なんだ…結局ピアもソーシャルワーカーも一緒やん。

 

 

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誰か当事者研究教えてくれないかな