長谷川先生が認知症になった
病院の会計の待ち時間が60分と出ていて軽く眩暈を覚える。席を探す。このご時世、しかも病院なのに、どうして同じところに固まってみんな座るんだろう。ちょっと奥に行けば席はたくさん空いているのに…。
席は空いているのに集まって座るこの高齢者たちと混んできた待合室で隣の席に置いた鞄をどけるのに一瞬躊躇してしまうボクとどちらが愚かなんだろう。
そういえば「NHKスペシャル」に長谷川先生が出ていたんだっけ。YouTubeにアップされてたはず。時間もちょうど良さげだ。
「認知症医療の第一人者が認知症になった」というナレーションではじまったそのドキュメンタリーは、そういえばというような軽い心持でみる番組ではなかった。YouTubeでよかった。いつもは空気読まずにカットインしてくるむかつくCMでクールダウンできたから。
「自分が壊れて行きつつあることがほのかにわかっている」
「生きていく上での確かさがなくなってきている」
「何を言っていいのかがわからない。だから寡黙になる」
なるほどとうなづけるさすがな言葉が次々出てくる。
長谷川先生は長谷川先生だ。認知症の長谷川先生じゃなくて、長谷川先生が認知症になったと銘打ってしかり。だけど 先生の認知症の研究はこの言葉たちによって完成されるのだろうか?
「あの美しい心の高鳴りはもう永遠に与えられないだろうか」という苦悩を誰にも言えずに亡くなっていったアルツハイマー病の患者さんの話をしていたが、長谷川先生は、その患者さんのこともいつか忘れてしまうんだろう。やるせなくなった。
かつて専門学校で教えていた時「依存症を親に持つ子供は、依存症になりやすい」なんて平気な顔をして説明していた。そんなの絶望じゃないか。きちんと救いのヒントとなる光を生徒たちが感じれるような話をどうしてできなかったのか。
誰かの絶望が他の誰かの救いになるということもある。そういうリアリティをたよりにこれまで生きてきた自分が、希望のあるエンディングをみたいと願っている。そして誰かに与えたいとすら思っている。
どうか希望で終わってくれますようにと祈るように迎えたラストシーン。認知症になっての景色ってどんな景色ですかとの問いに、「認知症になっても景色は変わらない。普通だ。前と同じ景色だよ」と長谷川先生は答えてくれた。敬服。
病院の待合室で高齢者をみる目つきが少し変わったような気がする。
これからボクが依存症について語るときどんな希望をそこにのせることができるだろう。それができるためにはどんな生き方をすればいいのだろう。それができたときボクはどんな景色をみることができるんだろう。支援者から当事者になるというアディクトのモデルはなかなかない。ならでわなものをいつかつかみたい。
「ありがとう」と頭を下げる長谷川先生の頭をふふふと笑いながらペチペチと叩く瑞子さん。このシーン好き。