ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

河合香織の「セックスボランティア」を読んでみて

福祉の仕事をしてもう二十年。長くも短くもない年数であるが、まだまだ知らない分野があったのかという思いと同時に、いくらやりつくしても結局自分の世界なんてたかが知れているという事実をさとされた気分になった。

支援とは、ボランティアとは、性とは、そして生とは…とはとはパニックだ。
「食欲」「睡眠欲」「性欲」人間の三大欲求を満足させるために福祉の現場は何ができるのか。何をしてきたのか。そして何をしてこなかったのか。
きっとこの本は問題提起なんだろう。
その問いに対して「色々あっていい」という答えは逃げだ。
どうにかこうにか、はしくれなりに福祉の仕事をしていたものとしては浅いレベルであっても自分の考えみたいなものはもっていたいと思っている。
現時点で、セックスボランティア(性的支援)がありかなしかであれば、ボクの意見は「NO」である。ナンセンスとは言わないもののトゥーマッチすぎる。(放蕩淫蕩系のくせして意外とコンサバなんです)。
理由は…自分がやりたくないし、やられたくないし、できないから。

「セックスチャンスの確保は合理的配慮に含まれる」
「はい。そうでしょう」

「自分ができないから認めることができないというのは、理由になっていないし、傲慢である」
「ごもっともです」

「NOという答えで道を閉ざすのは簡単なことである。選択肢を増やして方策を考えるべきではないか」
「反論ありません」

頭では「ありかも」って思えても、なんでだろう、どうしてだろう、うまく受け入れることができない。

これって福祉の仕事としてやることなのか?
福祉でやるべきことでないことも、福祉でしかやらないので仕方なしに福祉が担っている。そういうことが多すぎる。そんな風に思ってしまう。

例えば、立ったり、座ったり、食べたりなどのひとりでやるべき動作へのケア(介助)は専門的介入であってもいいだろう。だけど二人以上での行為については、専門家は直接的サポートを手放すべきなんじゃないか。性的支援も(そういうものがあるとしたのならば)、マスターベーションの介助、風俗店への同行は納得できるが、セックスの相手になるってのは違うんじゃないかと…。じゃあこれまで自分が行ってきた余暇支援っていうのはなんだったんだ。うそごとだったのか。疑似体験に生じる感情は本物でもいいがあくまで疑似だと割り切る技術を持つことが専門性なのか?そこをゴールにすることは妥協なのか?

すこしぐちゃぐちゃしてきた。
混沌の渦を上から見るのは実践者の役割ではない。渦の中で翻弄されながら答えを(それはどんな浅いものであっても)見つけようとするのが実践者の責務なのであればこのぐちゃぐちゃを内包しておくことが大事なんだろう。

いろいろぐちゃぐちゃしながら「障害者の性の問題を考えるにはまず就労問題を考えるべきだ」というフレーズはすとんとおちた。収入が確保されていればこのいびつな境遇はもっとシンプルになる。そういうことなんだろう。
だが実際はそうではない。じゃーどうする。
支援計画書のニーズの欄に「充実した性生活」って書いてもらおうかな。支援内容、支援期間、サービス提供機関ってどうなるんだろう。もしその計画書を提出したら役所はどう判断するんだろう。なんか面白いことになりそうだな。
いつの間にか性的支援が「NO」ではなくなっている。まあいいか。

 

 

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書籍の画像を探そうと「セックスボランティア」で検索してみたら結構エグかった。