ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

いつかの認知症介護指導者養成研修

その出会いがなかったらきっと今の自分はないであろう。人生にはそう思えるような場面が何度かある。ボクの場合、認知症介護指導者養成研修がそのひとつだ。あのころは認知症でなく、まだ痴呆と呼ばれていたんじゃないかあ。この研修は、認知症実践研修を中心に、地域の介護専門職の人材育成に関わって、認知症のケアの質を向上させるための専門職員を養成することを目的にしている(改めて調べてみた)。

当時、ボクは沖縄の精神病院の認知症治療病棟で働いていたが、上司の命令でよくわからないまま東京行の飛行機に乗った。花の都大東京。わくわくしていたが、杉並にある研修センターに着いてからの約二か月間、ほぼ軟禁状態だった。富士見ヶ丘の駅をつかってどこかに羽を伸ばしに行ったという記憶がない。毎日の課題の提出、そしてダメ出し、再提出と新たな課題、ダメ出し(×2)とさらに新たな課題…。「これ死ぬ気で考えてきた?」「エビデンスは?」「いつも“とりあえず”ってケアしてんの?」。厳しい毎日だった。認知症に関する最新の知識を叩き込まれるんだと覚悟(期待)していたがまったく違った。新しいものをつくるにはまず壊さないといけない。知識を享受する、技術を獲得するというよりは、自分のもっていたものをまずぶっ壊される。そんな時間だった。そこらじゅう自分たちの信じていた固定観念で散らかりっぱなしだった。これって洗脳?外部との交流を絶たれ、自己否定の繰り返され、身体的精神的追い込まれ…冷静に考えるとブラック企業の常とう手段にも思えたが、これで立派な専門職になれるんならと自分をゆだねた。自分でも一皮むけそうだという予感とゆだねてもいいと思える熱さがセンター職員にあったからだと思う。

自分は当時二十代で培ってきたものがほとんどなかった分、痛みは少なかったが、研修にはさまざまな年代、様々な職種のの人がいて、キャリアの長い人ほど、職位の高い人ほど、プライドをもって仕事をしていた人ほど大変そうに見えた。ストレスフルな時間が続くと冷静な判断ができなくなってしまう。誰かがこの研修のスタイルにモノ申すというこということがあった。こんな閉鎖的で圧迫的な研修は間違っていると。研修の雰囲気はよくないものになった。

解決したのは当時名誉センター長だった長谷川和夫先生。予定外の講義が組み込まれて突然現れる長谷川先生。何を話したかはよく覚えていない(たしかご自分がこの世界にに入ってこようと思われた理由なんかを生い立ちを絡めて話されたような気がする)。

ボクがこの業界に入ったころにはもう長谷川式認知症スケールは常識になっていて、この研修を受けるときにセンター長が当のその人だと知り、「まだ生きてる人だったんだ」っておののいた。ボクの中ではそのくらい上にいる人だった。長谷川先生の話を聞いてからこの研修のありかたについて誰も何も言わなくなった。権威ってすばらしいってことをいいたいいんじゃない。そのくらいボクの中では大きい存在だったってことだ。

その後、ボクは沖縄からも高齢者福祉の業界からもはなれてしまった。(あのときは県庁に呼び出され「あなたをこの研修におくるのに一体どれだけの税金がつぎこまれたと思ってるんですか。学ぶだけ学んで内地に戻るんですか。計画的だったんですか。」って叱られて(もっともな指摘だし、謝るしかできなかった)、そんなひと悶着もあったなあ)。だけど、あの研修を一緒にサバイブした人たちは同志となった。連絡を取れる人も取れない人もいる。だけど研修生同士、絶対にこの経験はいつまでも身体に残っているだろうという確信をたよりにつながってる感はある(刑務所体験した人同士の共感に近いかも)。

その同士の一人から連絡があった。長谷川先生が認知症になったらしく、ドキュメンタリー番組で放送されていると。今日、そういえばと思い出して見てみた。

そのNHKスペシャルの番組について書こうと思っていたのにこんなに長く前置きが…。続きはまたあした。

 

f:id:ultrakidz:20200313215309j:image

修了証書も研修資料も前の職場に置いたっきりだから思い出は写真だけ。