感動ポルノ
清原選手だとかタレントの高知さんとかスネに傷を持つ有名人を一堂に集めた依存症の啓発イベントを見た。回復を語って、笑って、歌ってみんなよかったねって、なんかこれ夏の終わりのあの感動ポルノ番組っぽくないか。これでいいのか。あそこを目指しているのか。これを喜ばなければいけないのか。
努力は報われる。願えば叶う。そんなわかりやすいストーリーじゃないだろっ。うまくいえないけど。うまくいえてしまえるもんなんかじゃ違うって感じ。世間はこういうのを求めてるんだろうか。僕はこういう姿を知ってもらいたいと思うようにならなければいけないんだろうか。
滑る姿にアディクションの本質はある。別にスリップを讃歌してるわけでも正当化するわけでもない。田代まさしさんがアディクションの真実だし事実だとそう思う。だから今の田代まさしさんに話をしてもらえばよかったのに。真実の絶望に落ち込まないようにその場限りの希望を継ぎ足し注ぎ足しその上を歩いている。それでも滑り落ちてしまうこともある。乱暴な言い方になるかもしれないけど、スリップしないアディクトだけを受け入れる社会ならいらない。
アディクトは強くもない。弱くもない。ただ壊れやすい。それだけだ。自粛ムードでミーティング会場が閉鎖され、分かち合えない。ハグもない、ハンドリングもない。いつもと違う。ただそれだけでみんな揺れる。すべるすべるきれいにすべる。駅に着いたけど財布を忘れたことに気づいて、その日の予定がもう全部どうでもよくなる。そんな感じで今の生活をあっさりすててしまえる。そのくらいにもろい。まあしぶといところもあって、たやすく不幸にもなんないんだけどね。アディクトってだんだんと不幸にならない。ストンと穴に落ちるように不幸になってしまう。わかりにくいよなあ。多分周りからはわかりにくい。もろくわかりにくいアディクトたち。
引きこもると社会に目がいくみたいだ。それもちょっといやな感じで見てしまう。物申したくなる。いつもならもっと穏やかに事実にタッチできるのに。注意しないとな。だけど何を信じていいのかわからないときも何を信じるべきかを探索する努力は忘れずにいたい。
誰もいないゴーストコロナタウン。自転車すいすい。