ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

依存症について語るとき僕の語ること

やっぱり村上春樹いいよ。「走ることについて語るとき僕の語ること」。まだ半分しか読んでないけど。すごくいい。

「走ること」を「ミーディングに通うこと」に、「小説を書くこと」を「クスリをやめること」に、それぞれ置きかえて読んでいくと、ページをめくるたびに「そうかそうか」って頭ん中でのど自慢の合格の鐘が鳴る。

例えば…。毎日走り続けることと意志の強さには相関関係はないんじゃないか。自分は好きだから続けることができているんだ。だけど向き不向きもあるからけっしてまわりの誰かにランニングを勧めたりはしない。そんな風に語られている。

これってまんま依存症にあてはまる。クスリをやめるって意志じゃないんだよなあ。もちろん意志は最低条件として必要だけど、意志だけじゃやめれない。そしてミーティングだってやっぱ向き不向きが絶対にある。ミーティングでクスリをやめれるのはごく限られた人だけなんだって。ミーティングでやめれる人はミーディングが性にあってたってこと。

走ることは、もし性にあわなくても、水泳やらクライミングやらテニスやらほかの代替えがある。だけど依存症のリハビリってミーティングのほかに手だてがない。ここが走ることとの違いで、依存症のリハビリの弱点でもある。ミーディングは万能ではないのに他にリハビリの選択肢がないという現実。保護観察所の監察官に連れてこられてくる保護観察中の人の中にはたまにだけど、あまりにういてて(この人絶対にここじゃないでしょう。とにかく今ではないでしょう。ってありありとわかるんです)、連れてくる方も、連れてこられる方も、受け入れる方もみんなが気の毒なときがある。

ミーティングにどうしてもマッチしない人もいる。支援者も当の本人もお手上げするしかないときもある。だけどとりあえずは障害者としてのサービスや制度の恩恵をうけている身なんであれば、一度はチャレンジしてみるってのはエチケットなんじゃないかなあ。はじめはなじめないのも当たり前。少しずつうちとけることもある(やっぱりダメだということもある)。縁を運命に変えるにはちょっとした努力は必要なんだと思う。

クスリをやめるためにミーディングに通う。ミーティングのためにミーティンに通う。どちらが回復への道なのか。日本一のベストセラー作家はどうして走るのだろう。小説を書くために走っているんだろうか。走るために走ってるんだろうか。最後まで読めばわかるのかもしれない。

村上春樹は語る。「僕は僕の目的地へ走り続ける。僕の目的地?もちろんニューヨークだ」って。かっこいい。めざすゴールが明確にあるってうらやましい。依存症のレースにはゴールがない。つらくしんどい道のり。でも人生ってそんなもんなんだろうね。この本だって、顔をしかめたり、足を引きずったり、みじめだったり、苦しかったり、ふがいないエピソードばかりだ。耐えて耐えて耐えて乗り切った体験からしか言葉は生まれてこない。そう教えてくれる。果てしないゴールだとしても続けるしかないんだよな。ドラマは痛みからしか生まれない。人生はストイックなんだ。

  

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さあ残りを読むとするか。やれやれ。