ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

仮釈前の感想文に書いたこと(と書いてないこと)

収監生活の一年四か月。この間、ほとんどを病舎の単独室の中で過ごした。
煩わしい人付き合いがなくてすむ反面、無性に淋しくなりひとりであることにうちのめされるようなことも何度かあった。そんなときの救いが手紙をくれる両親や友人の存在だった。自分は一人で生きてきたつもりでひとりで生きることが好きだとさえ思っていたが、それは大きな間違いだった。誰かがいてくれることのありがたさを知り、きちんと感謝できる人間になりたいと今は思っている。

同じスケジュールにかわりばえしないルーティン作業を繰り返す毎日をなんて味気ないんだと当初はうんざりしながら過ごしていたが、あるころから受け止め方が変わってきた。
規則正しい生活に気持ちのいいおちつきを感じるようになってきたのだ。
毎朝おきて、自分の体調や精神状態のレベルがぱっとわかるようになれたのも軸のある生活をつづけたゆえのものだろう。
心身の健康というのは一見どうってことのない当たり前の生活からも得ることができる。いやむしろそういった暮らしからでしか得られないものだということを学べた。

人との交流が極端に制限され余暇活動といえば読書だけだった。本が友達だった。小説、エッセイ、ノンフィクション、専門書…手あたり次第むさぼり読んだ。
知識もついただろう。だけどそれよりも読書からは自分の生き方を振り返る機会を多く与えてもらえた。そのことが一番の収穫だった。

規則正しい生活習慣、家族や周りの人への感謝の思い、断薬の決心。ここでの生活の成果である。収監されなければ絶対にえることのできなかった貴重な成果である。だけど釈放されてもこれらをもちつづけていれるのだろうか。せっかく手にした成果そのもののそうであるが、それをなくしたくないという気持ちも自由と引き換えに手放してしまいそうで怖い。早く外に出たいという気持ちはこういうものからも解放されたいという思いの裏返しのように思えるときもある。

懲役を終えるということはただ刑期が終わるに過ぎない。
罰はつぐないのきっかけにはなっても、そのものにはなりえない。
つらいこと。つらいことに耐えることだけでは反省には届かない。
そんなふうに思っていたらなんか感想文なんか意味がないように思えてくた。
最後の最後まではっきりしないなあ。はっきりさせてしまったらそれでおしまいになってしまう気もするしこれでいいんだとも思う。