ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

一橋大学アウティング事件

ある大学の先生から「一橋大学アウティング事件」についてどう思うかコメントが欲しいといわれた。実は聞かれるまでこの事件については知らなかった。ゲイだからってゲイにまつわるニュースに精通して常に何かしら見解をもっていることを期待されるのは重荷だなあと思いながら、答えたいという欲求にあらがえず考えてしまう。


ウィキペディアによると、この事件は次のように説明されてあった。
2015年4月に一橋大学法科大学院の男子学生Aが同級の男子学生Bに対しLINEを介して「好きだ。付き合いたい」などとメッセージを送って恋愛感情を告白したところBは「付き合うことはできないが、これからも良い友達でいたい」などと応答した。その後Bは同級生である友人たちが見ているLINEグループに「お前がゲイであることを隠しておくのムリだ。ごめん(Aの実名)」と投稿し、Aが同性愛者であることを第三者に暴露した。このLINEには同級生10名ほどが参加していたとされ、結果的に七人に対してAが同性愛者であることが暴露されたともいわれている。その後Aは授業でBと同席すると吐き気や動悸が生じるといったパニック障害の発作を起こすなど、心身に変調をきたすようになった。7月以降、Aは心療内科を受診し、不安神経症と診断される。この間Aは法科大学院の教授や、大学のハラスメント相談室に相談をしており、大学はAの状態を把握していたが、クラス替えなど特段の対策は取らなかった。8月24日に行われていた必修の「模擬裁判」の授業中にAはパニック発作を起こして大学の保健センターで投薬などの処置を受けた後に授業に戻るとして保健センターを出た。Aはクラス全体のLINEグループに「(Bの実名)が弁護士になるような法曹界なら、もう自分の理想はこの世界にない」「いままでよくしてくれてありがとう」などと投稿した上で、大学構内のマーキュリータワー6階ベランダから転落してのちに死亡が確認され、投身自殺したものとされた。

 

僕は学者でも政治家でもないから自分の体験と照らし合わせて考えることしかできない。
これまでLGBTの差別や偏見だとか権利の問題に対して正面切って考えたことがなかった。何かエポックメイキング的ニュースがあったとしても知識の把握にとどめておいて深追いはしなかった。ひっかけてしまうと自分の問題だと認めてしまうことになりそうで嫌だった。どんなに世間で問題と言われていたって、自分にとってその件(内なるセクシャリティ案件)はもう折り合いつけてますからと、降りた態度で生きてきた。けどこれは後付けの理由で、はじめから選択肢はなかったんだと思う。LGBT問題に向き合う姿を誰かに見られるということはゲイであるということをカミングアウトすることになってしまう。何度も言ってきたがそれはとても恐怖すべきことで、だれも幸せにしないふるまいであると思いこんでいた。カミングアウトした方が生きやすいとか、自由になれるとか、そういう正論はどうでもよく、むしろ不自由さや生きづらさこそが自分らしさだと信じてきた。
この絶対に悟られてはならない自身の性的指向を無理やり世間に晒されるのは、丸裸で路上に放り出されるようなもんである。とても恥ずかしい。いまだに地元の友達には、前科、覚せい剤使用、HIVについては言えても、ゲイだってことだけは言えない。カムアウトするってそのくらいのハードルの高さなんだ。
Aくんと僕は別人格なので彼がこういう風に感じるかはわからないが自分だったらこんな気分かなと。

自分は逮捕のどさくさにまぎれてのぶっちゃけができたんだが、これがプラスに転じるか、さらなるトラブルの火種になるかは正直わからなく不安でもある。子供にどう影響するかとかもあるし…。


アウティングって何なんだろう。いじめ?名誉棄損?ハラスメント?リベンジポルノ?どれも近いようなそうでないうような。とにかくやられた側はその行為に対して絶望的に無力で、相手への悔しさ、自分へのみじめさ、第三者への恥ずかしさでぐちゃぐちゃになるだろう。知られたくないことを知られてしまう恐怖、すごく共感できる。
LGBTなんざさほどめずさらしいものじゃない。人口の9パーセントくらいはいる。山手線の満員の車両にはかならず数人は乗車している。身近な存在だ。

確かにそのとおりかもしれない。だけどそれはLGBTを知ってるだけでわかっていない人の言葉だろう。100人の中の9人のLGBTでなく、世界中にたったひとりのAくんなのである。いつか来るであろうAくんがAくんのタイミングでカムアウトできる場面を(カムアウトしない場面も含めて)見守ろう。そんな誰かがひとりでもそのときそばにいたならまた違った風になっていたのかもしれない。
リベラルな集団内での出来事である。

「LGBTは差別すべきことではない、ゆえに過剰に反応することすらおかしい。見守ろう。」

そういう流れだったのかもしれない。だけどそうだったなら、間違いでなかったにしろ不十分だったように思える。


あるエピソードを思い出した。NAのミーティング会場であるメンバーが自分がゲイだということをおろしたとき、それを聞いていた2、3人のメンバーが「実は自分もそうだよ」と続いた。(中にはあなたは結構むきだしだからわかってたよって人も含めて)。やっぱゲイって薬中ばっかって思いながら、僕自身はそのカムアウトウェーブには乗れなかったものの、この場面に出会えたことはこれからの自分の人生の様々な曲面においてきっとすごくいい風に作用するに違いないとうれしく確信したのを覚えている。はじめにカムアウトしたメンバーはすごく自由な顔つきに変わっていた。あんな短い時間でこんなに人の顔って変われるもんなんだなあ。

Aくんが自由に顔を上げて生きていくためにはなにが必要だったのか考えることが今生き延びている僕たちの義務というと大げさだけど、役割なんだと思う。


自分の体験からAくんの気持ちには近づけそうだが、Aくんの気持ちを理解できなかったBくんの気持ちを知ることは僕にはできない。Bくんにも同じような存在が必要だと感じる。そして向き合うことが必要なんではないかとも思う。もしかしたらわかりあえないかもしれない。けれどもわからないから向き合わないことと、向き合ったけどわかりあえなかったというのは全く別物である。

「キルトに綴る愛」という小説を読んでいて、その中にこんな一説があった。「“私たち、肌の色なんか気にしないの。あの人たちも私たちと同じ人間よ”などとは間違ってもいわなった。グループが長続きしていたのは彼女たちが違いをはっきり認識し、それを超越しているふりをしなかったからだ。人はすぐにいっしょくたになったり離れたりする。そしてバラバラになったものをひとつにまとめようとする。結合と分裂の衝動。その力はとても強い。」

 

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僕は一体何を言いたいのだろう。よくわからなくなってきた。Aくんの死を悼みたいのか。Aくんの死から何か学びたいのか。

あー、頭が痛くなってきた。AくんのことをAくん以上に考え知ろうとしてしまうのはAくんに対して失礼だという警告なのかもしれない。

全て理解しきってしまえばAくんの死は無駄になるようにも思える。もうやめとこう。この混沌は自分の問題として、この痛みごと覚えておこう。