ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

職場への手紙

皆様、ご無沙汰しています。

 

何から書き出せばいいのか途方に暮れています。
心配させ、迷惑をかけてしまい申し訳ありませんでした。利用者さんにも職員の皆なにも関係者の方にも本当にすみませんでしたということしかできません。
今回の事件、自分が逮捕に至った顛末についてはそれぞれが耳にしているとは思いますが、自分の言葉で説明しなければいけないと思い手紙をだすことにしました。5月からいつかいつかと自分に言い訳をしながら時間だけが過ぎてこんな時期になってしまいました。この手紙は今、拘置所の病室で書いています。なぜ病室なのかは流れの中で説明します。

 

今年の5月末に都内で覚せい剤を使用、所持していたことで逮捕され原宿署に勾留されました。6月に起訴となり9月に東京地裁で懲役一年半(内四か月を二年間の一部執行猶予)の判決を言い渡されました。
初めて覚せい剤に手を出したのは平成25年6月だったと記憶しています。知人の勧めで何の抵抗もなく興味本位が動機です。次の日、長野の病院まで車で往復した際、疲れなくて便利だなあと思ってました。ごちゃごちゃした頭の中が整理されていくようなスッキリした感覚があって、遊びでも仕事でも使っていました。そんないいことづくめなハズもなく、みるみる使用頻度も多くなり平成26年2月に自宅へ令状をもった警察官が捜査にきました(俗にいうガサです)。
その時は所持していたわけではなかったんですが、自分でもこの調子じゃやめられなくなりそうだという恐怖もあり、その場で使用していたことを認めました。すぐに逮捕にはならず、尿検査の結果で使用がはっきりした3月末に逮捕となりました。あの頃、一か月近く失踪していたのは留置されていたからです。この時は身柄が拘束されるまでに一か月程度の時間があり、ある程度不在に対しての下準備ができる余裕があったので裏工作がいろいろと出来てしまったんです。これが一度目の逮捕になり、平成26年5月に東京地裁にて懲役一年半(執行猶予三年)の判決をうけました。誰にも伝えず、素知らぬ顔をして仕事に復帰していました。

 

法人の本部には一か月間の不在についてははっきりした理由は伝えず、黙ってうつむいていたら疲れによるうつ状態だったんだろうと解釈してもらえました。職員のみんなにもごにょごにょした曖昧な説明をしていたことを覚えています。今思うと自分が事業所を支えている、その自分を追い込むようなことは誰もしないだろうというおごりがあったんだと思います。精神障害を持つ人をサポートする立場で精神疾患(うつ)を都合よく保身のために利用しようとした時点で救いはありませんでした。

 

初犯でしたし、執行猶予が付くことは確信していたので、法律を犯したことやこれまでの生き方について振り返ることはありませんでした。どう立ち振る舞えばこれからをやりくりしていけるかだけを考えていました。
日常がもどったことで、覚せい剤依存と自分とを結びつけて考えることは全くありませんでした。依存の自覚もないので、ただ使っていないという綱渡りのような毎日が二年続きました。
すべて元通り何事もなかったようにそんな都合よくいくはずもなく、覚せい剤を使っているわけでもないのに体調は常に芳しくありませんでした。
適当な理由をつけてNPOやらの理事職はすべてキャンセルしたり、まずバレずに取り繕うことがすべてにおける第一優先でした。
執行猶予が付いた状態では資格は失効にならないことはわかっていましたが、「精神保健福祉士」と呼ばれるたびにドキッ、ズキッと胸が痛かったです。
何か興味のある新しい取り組みにも前向きになれず、いつも後ろめたさを感じていました。こんな気持ちがどんどんひどくなって自分が何を話していても、何を書いていても「どの面下げて」「えらそうに」という声が付きまとっていました。うまく前のように仕事をこなせない、そんな不全感の中で再び手にした覚せい剤は単なる娯楽、快楽の一部ではなく、気持ち、意志、時間をコントロールできる(できた気になれる)生きる手段にグレードアップしていました。
あっという間に使い始めたころの十倍近くの量に耐性がついてしまいコントロールするためのクスリによって自分の人生がコントロール不能に追い込まれてしまいました。
精神疾患のテキストの依存症になるプロセスの見本のようです。
そんな中で今回5月末に二回目の逮捕となりました。

 

起訴後予想外に保釈をもらうことができました。保釈中は、どうせ今頑張っても刑務所にいくことには変わりないという思いが強く、毎日が積みあがっていかない投げやりな気持ちでしたが、治療やリハビリに行っておいたほうが判決に有利になるという打算もあり、薬物依存の専門病院、ダルク、NAには通っていました。後ろ向きな理由でのリハビリでしたが、アディクションについての知識や自助グループなどを通して新しいネットワークが広がっていく楽しみもありました。そんな中、9月の判決となりました。

 

経験ないでしょうからわかりにくいかもしれませんが、自分の場合、執行猶予中の再犯なので前刑(一回目の判決)の執行猶予が取り消され、今回の一部猶予を差し引いた一年二か月と前刑の一年半が合算されて計二年八か月の懲役となります。(今年の6月からはじまった刑の一部猶予法の対象となりました)
平成31年5月に懲役は満期になります。

 

今、病棟に収容されているのはHIVの治療のためです。免疫系の数値があまりよくなく今後は医療刑務所に移送されることになりそうです。
ここ拘置所の病室はまさに頑丈な保護室というイメージです。安静第一のため特に日課もなく本を読み漁る毎日です。二十四時間病室内一人で過ごしています。この二か月間人と接していないのでちゃんと会話できるか、笑えるか不安になりますが、これまでのことを振り返るには十分な時間があり、ありがたい環境です。

 

留置のときもそうですし、こちらに来たばかりのときもでしたが、薬の使い過ぎの影響もあって個室にひとりになると幻聴やら妄想で右往左往していました。公安警察が自分のことを尾行してノートやら手帳、スマホをチェックしている、弁護士の先生との接見を盗聴している、留置所の四階と五階の間にもう一つ隠れたフロアがある、他の拘留者は内偵刑事なんじゃないか、夜中誰かが部屋に入ってきている、隣で自分の話をしているなど...ありえないとはわかっているんですが、今も半信半疑です。ただ、この症状のおかげであの追い込まれた状況を乗り切れた部分もあったのは確かです。

 

持ち込みの差し入れの専門書なんかを読んだりしていますが、字面を追うだけで実践を絡めて身に着けたという実感が得れません。面が横には広がっていくけど、縦に伸びていかないもどかしさがあります。それ以前に自分はこの福祉の仕事をもう一度やろうと思っていいのかという根源的な問いは置き去りのままです。ただ、つくづくやっぱり自分はこの仕事が好きだったんだなあとかみしめています。そして好きなことをやれていた毎日を大切にすることを怠った代償は大きかったと…
どう終わらせればいいのかわからずだらだらになりつつあります。

 

これからは薬物依存、HIV、犯罪歴、LGBT(これはあまり知ってる人はいなかったでしょうが...ええまあニュートラルな人間なんです)という爆弾やらジョーカーやらを抱えためんどくさい人生になりそうです。ただ今回の経験でめんどくささを受け入れるキャパは人並み程度にしか持っていないことは自己覚知できたのでそれぞれをそれなりに受け止めて共存したいと思っています。

 

謝罪、反省、感謝をどうにかして伝えたいという思いだけでしたが、この手紙ただの言い訳ですね。あれこれ書いているうちに自分の気持ちが救われたような感覚もあり、だれのための手紙なのかよくわからなくなっています。
この自分自分が前に出てくるところ、変えていかないとなあとも思っています。

 

いろいろ全部すみませんでした。
責任果たせずに申し訳なく思っています。
もろもろ全部ありがとうございました。
直接お礼を言えなくてごめんなさい。
これからもみんなで協力して頑張ってください。
一緒に働いていたことを僕はずっと覚えています。
本当にありがとう。