ある依存症者の終わらせたい日記

人生の大事なことは覚せい剤が全部教えてくれた。HIV×ゲイ×依存症×前科⇒精神保健福祉士のライセンス失効⇒最近復権。君子豹変して絶対に幸せになる。

限りなく違和感に近い差別

向かいから歩いてくる女装(セーラ服にすっぴん)の中年男性。かなり遠くからでもその異様さは目立つ。おやおやかわいそうに罰ゲームかなぁって思ってじっくり眺める。罰ゲームだったらきちんとヒヤかすのがお笑いのマナーであるから。50メートル、30メートル...どんどん近づいてくる。間違いに気づく。纏っている空気にお笑いの要素が1ミリも含まれていない。ガチリアルだ。思わず思わず目をそらす。


外見でその人の本質を判断してはいけない。本当にそうか?その人のことを知りたいんだったらまずは徹底して見るべきではないのだろうか。目元に感情、口元に欲望、顔つきに主張、身だしなみに生活、立ち振る舞いに性格、歩き方に生き方...ある程度のことは見た目でわかる。女装に触れずこの人の本質、誰が語れるだろう?このいでたちはこの人の本質(セクシャリティということだけではなく、その人の持っているタダならない何か)の一部を主張してる(に違いない)。

 

「じゃ、貴方を知って貴方への誤解を解くためにじっくり観察させてもらいますね」というわけにも言わず(だってじっくり見るという行為は「もっと知りたい」と「知ってもらって構わない」という関係下で成り立つ話であるのだから)、僕はただ社会人のエチケットとして目をそらした。


...いやいや本当のところは違う。本能的に嫌だった。瞬間的な拒否だった。足元がぐらぐら揺れる感じの不快さだった。「思わず」にはそんな意味合いが含まれている。僕の無知、経験不足から来る差別だ。「家ん中でやってたらいいでしょ」。「みんなが不快になるとわかっててどうして?」。「自分にとっても不利益じゃないの?」。だけど...全て自分に跳ね返って来る言葉だ。

 

見ず知らずの通りすがりの他人である自分に他人として出来たことは唯一「目をそらすこと」だけだった。関心があっても関心がなくても態度は同じ、目をそらし、一歩避ける。一見どうってことのないような場面。ただ、どうってことのないような場面って、実は誰にとってもそれ以外の選択肢が全くなくなってしまうとても常識にとらわれた場面なのかもしれない。こちらも多様性。あちらも多様性。多様性同士がすれ違う街。麻痺的無関心。エチケット的受容。常識ブロック。

 

外に出て行く時にドアノブを握る緊張感。今日はどこを歩いてるんだろう、昨日の女装子さん。勝手に想像してゴメンなさい。想像しかできなくてゴメンなさい。

 

f:id:ultrakidz:20200225225756j:image