もうほとんど令和のキリスト
月末になると金策に苦しみSOSを出してくる友人がいた。悲しいかな過去形の友人だ。言われた額を何も言わずに貸していた。翌月頭に返してもらい、また月末になると泣きついてくる。そのルーティンがしばらく続いた。
毎回「お願いします!」と90度に頭を下げる彼に、「金を貸すと人は消える」この寂しい現実を払拭してくれて…「まだまだ人は捨てたもんじゃない」そう思わせてくれて…「こちらこそ返してくれてありがとう」と心の中、手を合わせ感謝の気持ちで貸していた。
彼が消息を断つ日、いつもよりも多めの額を無心して来た。ためらいがなかったといえば嘘だ。だけどボクは何も言わずに求められたまま差し出すという美学を貫いた。
以後、彼からの連絡は途絶えた。
「どうしてる?feat.お金返してほしい」
「元気?feat.返金まだですか」
そんなメッセージを送る自分も嫌になり、そのうち、彼の番号はつながらない番号へと変わった。
「すいか」というドラマで小林聡美が演じる主人公が「わたし、お金貸す人いないんです。34になるまで人にお金を貸したことが一度もないんです」といってやや強引に借金を押し付けるシーンを思い出した。
貸そうと決めたのはボクだ。貸したのもボクだ。奪われたわけじゃない。返ってこなかった現実ごと受け止めなければいけない。別れを汚してしまった責任の一部は自分にある。信じるって、もうほとんど信じたいに近いことなんだよなあ。お金なんかに負けないって信じたいんだけどなあ。みんなじゃないだろうけど、一人くらいは見つけたいなあ。
ドラマの終盤、「苦しい。苦しいよー」と泣きながら逃げる3億円横領犯役の小泉今日子に彼が映る。また会える日は来るのだろうか。ボクは会いたいなあ。返してくれたらまた貸すから会いたいと思う。会えることをボクは信じる。信じる力がボクを生かす。
あの時の「ありがとう」はきっと「ごめんなさい」の聞き間違えだったんだろう
手放される力、ある朝の二度寝に想う
有無をも言わさないとはこのことだ
ギリギリではない
並んだ数字は遅刻の覚悟をつけざるを得ない組み合わせだった
暴力的な目覚めはボクにスマホを掴ませる
躊躇よりも速く会社の番号を押す
「10分遅れます」と伝える
理由は言わない
今は必要ない
謝り方は着くまでに考えればいい
会社への連絡をすませてしっまえば部屋には清々しい朝があらわれる
シーツの肌触りが心地いい
ようやく存在感を取り戻した朝日に目がくらむ
「もう10分遅れることができる」
ボクはボクにやさしい声を(それがたとえどんなに小さいものであったとしても)聞き逃さない
二度寝への誘いに抗わない
時間厳守、貞操観念、そして早起き
この三つがない世界だったらオレの人生もっといいとこまでいってただろうなあ
そんなことを想いながら意識は混濁していく
安心安全あっての自己実現
こうして時間を失っていく
こうして期待を失っていく
軽やかな生活とはこういうことだ
南に向いてる窓を開っけー♪たら寒い季節になりました
カーテン買ってリネンも冬篭り仕様に
ヒーローはもういない
『コレクティブ 国家と嘘』という映画を観た。ルーマニアの政府の腐敗に対峙する者たち(挑む者たちと言った方がいいのかもしれない)を追ったドキュメンタリーだ。
生活困窮者支援を生業にしてこの一年、政治色の強い人達と接する中で「正義」について考える機会も多く、こんな辛気くさい映画にも日曜の朝早くから並んで観に行くようになった。去年、同じような政治ドキュメンタリー映画『なぜ君は総理大臣になれないのか』を観て政府の不甲斐なさ(不誠実さ)を競うなら日本がピカイチだろうと確信していたけれど、ところがどっこい世界は広い。絶望の闇は底なしだ。ルーマニアの方々も大変なんですね。泣けてきた。
見終わった後、一緒に行った病院勤務のソーシャルワーカー仲間に「医療従事者としてどう思う?」と思わず聞きそうになった。傍観者になろうとする自分に気づきやめた。これは医療の問題ではない。国と名のつく場所に生きる全ての人間の問題なんだ。
ヒーローはもういない♪と遺族の好きだったと思われる曲のカットアウトで終わる映画のエンディング。サビの続きは誰が歌うのか?ヒーロー不在の現実社会。まだ見ぬヒーローが現れるのをただ待つだけなのか?人生はそんなに長くないだろう?ヒーローなんてもういない。これって実は救いなんじゃないのか?若いやつらに景気のいいエンディングを語ってやれる世代になってやろうぜ、オレたちは。
満席だったけど、これ見にくる層ってマイノリティなんだr…やめとこっ。
ヘリクツ
努力、忍耐、根性、その手の言葉が嫌いだった。子供の頃からそうだった。苦労への耐久力が人より劣っていたせいで苦労の絶えない幼少期だった。まあ比べても仕方ない。体質だと受け入れてた(潔さが社会性の余白を埋める)。
「若い頃の苦労は勝手でもしろ」という大人に「だったらブサイクと蔑まれた人はみんな心清き人にならないと話が合わないのではないか?でも現実は…」と詰め寄る可愛げのない子供だった。ボクは「貧乏が生きる知恵を育てる」なんて言いたくないし、誰にも言わせたくない。
はばかりを失くしたのは大人になってから。「必要のない苦労はすべきでない」。ためらわず自己主張するようになった。正直はいつも後からやってくる。
だからって生きやすくなんてならない「嫌い」が「できない」に変わっただけだ。正直だって、不正直だってしんどい。とてもしんどい。人生はしんどいのである。
「やれジムだ」「やれコスメだ」そんな自分磨きに余念のない(そして根こそぎ勝ちとっていく)努力するゲイ達を横目に、それでも暴飲暴食で好き勝手を貫いて生きていくのって、それはそれで勇気がいるんだよね。誰もわかってくれないだろうけど。
ヒーロー
先週末、警察官に捕まった。
ここ数ヶ月、スリップ(薬の再使用)が止まらず、もう捕まるしかないかなあと半ば諦めていた矢先だった。
その日もいつものように出会い系のアプリに掲示されているアゲ系の書き込みにアタックし、Wic/経由で会うことになった。待ち合わせに指定された場所はシーサイド品川駅から歩いて20分ほどにあるローソンだった。海に近いんだろう。凍えながらあるいた。待つこと一時間、23時半を過ぎ最終電車も気になりはじめ、きっと冷やかしだろうと帰ろうとしていたところにマンションの部屋番号が送られてきた。「部屋は暗くていいか?」「もう先に食っている?」などのあまりやり取りしたことのないようなメッセージが送られてきたときに気づけばよかった。いや、まっとうな判断力なんてもうなかったんだろう。あまりの寒さに耐えきれずコンビニのトイレですでに少し入れたボクは軽くキマったまま指定されたインターフォンの部屋番号を押していた。
予告通り部屋は薄暗いワンルームだった。目つきの悪い男がソファーに座っていた。窓際に置かれたぬいぐるみを釣り合いだなあと思った。帽子をとってほしいとその男はボクに言った。ボクはこういうときにはいつもキャップスタイルなのである。素直に応じた。「若くみえるね」とその男は言った。調子に乗りやすいボクは「これでも五歳サバ読んでます」と誇らしげに答えた。
「もう入れてるんですか?」と聞くと頷くから「じゃあボクも入れますね」と伝え、ユニットバスで10メモを入れた。鏡に映るのは懐かしの薄っぺらい自分。3ヶ月かけてつけた筋肉は跡形もない。すこし手間取ったが無事静注できた。ガツンと来た。ふらふらした頭と体で男に近づき触れようとしが、男はボクを諌め、ベッドに座らせた。一息ついて「どんな仕事してるの?」「危ない人じゃないよね?」「ひとり暮らし?」など質問してきた。それでもボクは気づかなかった。しゃべる方にキマるタイプなのかななんてのんきに思っていた。唐突に「警察官なんだ」と聞こえた。見上げると警察手帳らしきものが見えた。どんな反応をしていいのかわからなかった…というかどんな反応をしたのか覚えていない。続けざまに「このマンション警察官の寮なんだよね」といわれ「ああ、終わった」と思ったことだけ覚えている。
「動かないでね」と落ち着いた(だけど有無を言わさない)口調での指示にボクは素直に従った。慣れた手つきではめられる白い手袋がボクをさらに動けなくさせた。白い手袋をはめたその腕はサクサクとなんの躊躇いもなくバッグから財布を取り出し、中身をチェックしていった。どんな仕事してるの?」「危ない人じゃないよね?」「ひとり暮らし?」…さっきと同じ質問がまったく違って聞こえた。
「調書取ってるわけじゃないから正直に言ってね」と言われたからではなく、免許証を見ながら「@@さんって言うんだ」と名前を呼ばれたせいで誤魔化せなくなった。聞かれるまま前科の話、刑務所の話、治療の話、障がいの話、仕事の話…事実を語った。
「オレにどうしろっていうんだ」と男は言った。ボクは「見逃してほしい」とは言えなかった。長くも短くもない静寂を破ったのは男の方だった。「ただってわけにはいかないからな」。手垢のついた言葉が聞こえた。「そういうことか」と合点がいき、安心した。言い渡された金額は安くはなかったが支払えないほどの額ではなかった。コンビニに戻り金をおろし、指定された金額を受け渡した。「金は力だ」とここまで実感したのははじめてだった。
「もう会うことは無いだろうけど」その男の口にした捨て台詞にボクは何も答えなかった。終電も往ってしまった駅へと向かうキマったままの体はあのとき何に震えていたんだろう。
警察学校でゲイははじかれると聞いたことがある。あの男はゲイだったんだろうか。そもそも本当に警察官だったのだろうか。はじめから罠だったんだろうか。ヒーローと名付けられたあの男のアカウント名はどういう意味なんだろうか。いまさら確かめようとは思わない。
あれから一週間がたち、もう体から薬はぬけている。(1キメ1射精の継続は途切れてしまった…)だけどあの帰り道を今もまだずっと歩いている気分だ。どこへ向かっているのだろうか。辿り着ける場所なんてあるんだろうか。
やわらかな傷跡
(注)これけっこう昔話ではあります
キラキラ教
行きたい
食べたい
会いたい
全部は無理だ
今日は何して遊ぼう?
今日はどれを選ぶ?
今日はどれを諦める?
不自由なクエスチョン
時間はいつも有期限
がっかりなボクは不機嫌
苦手な優先順位
選択に護られた豊かな街での生きづらさ
つかんだ希望の光はクスリ一択シンプルライフ
Without 煩悩
No more 懊悩
覚醒剤って大変じゃないですかって?
わかってないですね
アディクトになるってカルト宗教にハマるみたいなもんなんですよ
神様が白い結晶だってことですよ
アニミズム精神に根ざしたキラキラ教なんです
神様、わたしにお与えください
今日も選ばなくていい自由を
エバーエンディングジャーニーですね
ディープインパクト
自分という存在の生きながらの解体作業。今の日本社会でHIVになるということはそういうことだ。大袈裟ではない。実際にそういう日々がしばらく続いた。確かなるディープインパクト。
だが人は強い。時間を味方につけた者は最強だ。回復の名の下、バラバラの破片をほっちらほっちらひとり拾い上げ、組み立て、治す。新しい自分の出来は(元通りを目指すという指針でみれば)そう悪くない。以前とほぼ変わりなく仕上がった。だが「似ている」と「同じ」は別物だ。以前とは微妙に、だけど決定的に違う歪みがそこには存在する。
例えばコロナについて。このご時世、コロナを嫌がり避けるのは常識だ。しかし、ボクの態度は彼らのそれに比べて鈍感すぎる。いや、無関心という方が近いだろう。もちろんマスクもするし、うがい手洗い感染対策には抜かりはないつもりだ。けれどそこには、後ろ指をさされないためのパフォーマンスではないとは言い切れない自分が確かにいる。ズレちゃってるなあ。心底本心でコロナを恐れることのデきないズレてしまった自分がいる。
感染症の王様とも呼べるHIVから生還した成功体験がボクにもたらしたもの。どうにかなるんじゃないかシンドローム。HIVから日常を取り戻した物語の結末には、正しい痛み、恐れを失った男が生まれてしまった。痛みのない者は何かにつけて危うい。だけど長生きはしたい。長生きがしたいんだなあ。パフォーマンスでもかまやしない。せいぜいおそるおそる生きていこうと思う。
フィールドアイデンティティ
引っ越しの多い人生を送ってきました。
自分には地に足をつけた生活というものが、見当つかないのです。自分は九州の商人の家に生まれましたので幼少時から進学のために家を出るまで一度も引っ越しをしたことはありませんでした。転勤の多い親の影響でこうなってしまったというような育ちの問題ではないはずです。
普段の落ち着きのなさが生き方にまで反映されているんでしょう。いや元来の落ち着かない生き様が細部の立ち振るにまで醸し出てしまっているのかもしれません。まあどちらでもいいのではありますけれど。
十八で実家を出てから今の部屋がもう十八件目になります。
三万円の激安物件もありました。海辺の島の部屋もありました。3LDKにひとり(と猫一匹)だったこともありました。施設、独房、病室…いろんな場所で過ごしてきました。どの部屋も一長一短、いい思い出も悪い思い出もあります。ずっとひとりだったということが共通点です。
今の部屋は大きな窓がふたつあって、五角形の形をしたなかなか面白い間取りです。身の丈にあったちょうどいい広さです。山手通りに面していて騒音に包まれています。窓を開けると車の爆音に身体が舞い上がりそうになります。東京に住んでいることを実感できます。『サイレン 爆音 現実界 或る浮遊』と叫んだのは誰でしたっけ?
毎朝大きな窓から差し込む太陽の光に目覚めます。お天道さまに顔向けできない暮らしが長かったせいで、太陽がほんとうにあたたかくありがたい。暗闇に慣れるよりもいつまでも光に焦がれる性質(たち)に生んでくれた母親に手合わせる毎日です。
先日テレビを売りました。テレビを手放すと模様替えの選択肢も増えます。部屋の居心地もぐんと良くなります。ここのところツイッターにのせる画像は部屋の写真ばかりなのがその証拠でしょう。みんながテレビを捨ててしまえば世界平和も叶うような気がします。テレビを捨てよ、部屋にいよう。
今の部屋でただひとつ不満があるとしたら、それは…むかいに交番があることです。パトカーのサイレンが頻回なんです。その度に脳裏に逮捕されたあの日の記憶がちらつきます。サイレンと赤いライトは誰かのSOS。あの日自分を乗せたパトカーはいったい誰を救ったんだろう。そんな不毛にふらふら迷い込んでしまうんです。南無三。
ああ、自分の居場所はどこにあるんでしょう。ここじゃダメなんでしょうか。ここでいいんでしょうか。ひとりで生きていると居心地の悪さばかりに敏感になってよくありません。けど本当はわかっているんです。嫌なのはむかいの交番でなく、満足できない自分なんだということを。いつまでもひとりきりな自分をもてあましながらもこの独り身を捨てきれないでいる自分自身なんだということを。
まあそれもいいのかもしれません。時が来るのを待つのみです。梅雨が開ければ夏が来るのは自然の摂理ですし。
母という字は難しい
母という字は難しい。どうしても巧く書けない。
母の日のプレゼントは難しい。いつもうまく選べない。
母の好きなものってなんだろう。いまだわからない。
なぜだか女子の友達が多かった小学校時代。いち早くその違和感に気がつき、気に病んだ母は、ボクに男らしさを獲得させようと少年ラグビークラブやらサッカー教室やらに通わせるのに忙しかった。母親の興味はボクの普通社会への適応に一直線だった。ボクも期待に応えようと精一杯だった。だけど…、悲しいかな涙ぐましい母とボクの努力は報われなかった。波乱万丈紆余曲折(これまでのブログ参照)を得て、親不孝を引き換えにボクは見事なゲイアイデンティティを確立してしまった。
人生においては決定的な諍いというものがいくつかある。あの日保釈中だったボクは母と大きく諍った。しばらく会っていない子供(実の息子)から実家に連絡があったと聞いたボクは「刑務所に入る前に一度会っておきたい」と言った。「あの子はあなたじゃなくて私達祖父母に会いに来たいと言ってきたんだからあなたは会う必要はない」と母親はボクと子供の再会を拒んだ。なんてひどいことを言うんだと憤慨しながら、一方でこの傷つけられた事実をこれからの親子関係でのマウントに使ってやろうと思う自分もいた。救いようのないこじれっぷりである。
あれ以来、ボクは母親とうまく話せない。LINEのやりとりでさえ喧嘩になってしまうので極力控えている。想えば伝わる…伝わりすぎて傷つけあう。だから、ボクらは母子は言葉のやりとりを手放し、気持ちの交換はどちらかが死んでからだと諦めている。いつの頃からか、つながる手段は物品の送り合いに限るようになった。折り合いは大事だ。毎月一度とりあえず物を送っている。つかず離れずそれがちょうどいい温度となっている。ただ母の日や誕生日なんかだとドライにクールにふるまえない自分があらわれる。母の日は苦手だ。
母という字は難しい。どうしても巧く書けない。
母の日のプレゼントは難しい。いつもうまく選べない。
母の好きなものってなんだろう。いまだわからない。
父の日の贈り物は楽チンです。
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収監ダイアリー③
釈放が近づくとみな本面に呼び出される。本面とは保護観察所の職員との委員面接のことだ。この面接から4週目の木曜に仮釈予定者は転房となる。釈放間近な受刑者専用舎房に移る栄光の花道が開けるというわけだ。
Dちゃんがいる。前例に習い本面から四週目の本日木曜に転房してしまうと予想し、もう会えないだろうと昨日名残惜しんでさんざん別れの挨拶をしたDちゃんが今日また運動に出てきている。「なんなんだよ!昨日じゃなかったのかよ」とショックを隠せず大きく歯がゆがる可哀想なDちゃん。こういうイレギュラーは普通にけっこう多い。こういうイレギュラーがボクらを必要以上に強くさせる。やさぐれた顔つきが板につきはじめたDちゃん。きっといい男になるんじゃないかなあ。
「位置について、よーーーーい…」までは聞こえている。クラウチングスタートのポーズで身体中の筋肉をぷるぷる震わせながらピストルの音を今か今かと待ち続ける辛さ。ここからの一週間は長いだろうこと想像に易い。有期刑者みなが通る道であろうが切実で圧倒的で前例のない時間だ。
「高ければ高い壁の方が登ったとき気持ちいいもんな♪」とさり気なく口ずさんであげたらひどく睨まれた。一日も早く出たい者に対して『終わりなき旅』はそぐわなかったらしい。
Dちゃんの不安定がうつったように空がゴロゴロと唸りだした。そろそろ梅雨がやってくる。雨の季節だ。
いただきもののポストカード。なつかしい。
テトリスがきまるように
スマホが震える。見知らぬ番号から着信だ。好奇心が強いのでためらわずスライドで応答する。見覚えのない若い男の声が「新宿署、生活安全課の佐藤です。淘汰さんですか」と話す。今ボクはクスリをやっていないし警察から連絡を受けるいわれはない。うしろめたい気持ちもまったくないんだがうまく返事ができなかった。
留置中の色のない時間。手錠の冷たさ。不快な腰縄。地検の硬い椅子。気持ちごと潰されてしまう重いドアの閉まる音。ぶわああっと嫌な感覚がおそって来た。
あの頃、ボクは収監生活をとにかく楽しんでやろうと強い意志を持って過ごしていた。負の感情に支配されてへこたれそうになる自分があらわれるとイメージの世界でそいつを一発ぶん殴って気絶させることでつらさを乗り越えたていた。それでうまくやり過ごせた。だがヤツはしぶとい。釈放されてもう三年が経とうとしているがこんな風に不意打ちでカウンターを食らわせてくる。
そんなこちらのトラウマなんてお構いなしで事情説明をしてくる生活安全課の男。その事情については省くがざっくりいうと知り合いが捕まったらしい。携帯電話を持たない彼の交友関係の手がかりは財布に入っていたボクの名刺だけだった。面会に来て欲しいと言われたボクは「すぐに行きます」と答えた。
新宿留置には二〇一七の七月の終わりから八月のはじめまでの三週間いた。どうせ刑務所行きだと自暴自棄になっていたボクはシラフに耐えられず毎日覚醒剤を使ってハッテン場に入り浸っていた。歌舞伎町をふらふら歩いているところを馴染みの警察官に捕まった。きっとマークされていたんだろう。保釈中の逮捕だった。けっこうな絶望だ。
職質の直前にもっていたパケをビニールごと飲みこんだせいで取り調べも領地調べもぐりぐりの幻覚妄想状態でけっこうぐちゃぐちゃだった。同じ留置部屋の全身入れ墨ヤクザさんのことを内偵警察だと思いこんで「いやーこの彫り物、偽物なのによくできてますね」ってからんでいた。留置所はエレベーターでは三階とあるがこれは仕掛けで実際は四階にあるという妄想は今もなくなっていない。心の底から警察を憎んでいた。
数年ぶりの新宿署はあまり変わっていなかった。受付に立つ竹刀を持ったいかつい男に要件を告げる。ザ!歌舞伎町って感じの女の子たちに混じってエレベーターホールの椅子に座っているとしばらくして名前を呼ばれた。案内され「入ってください」と言われた部屋はなつかしいアクリル板の景色。椅子に座って彼を待つ。こちらからははじめてなのにデジャブを覚える。ぶあつい体の警察官に連れられ「すみません」と恐縮しながら入ってきた彼にあの日の自分が映る。あのときの自分はどんな気持ちだったのか。なんて言ってほしかったのか。思い出せないまま「大丈夫?元気だった?」目を合わせ笑う。二〇分の面会は自分と話しているようだった。
うらみ、つらみ、ねたみ、そねみ…そういったたぐいの記憶も全部まるごと覚えておこうと決めて生きてきた。これからの人生の糧にしてやろうと大事に抱えていた。そんな積年の覚悟がたった二〇分の面会であたたかい温度と色のある場所として上書きされてしまった。テトリスが決まってすべて平たくになったみたいなあっけなさだった。……こんなはずじゃなかった。でもこんなものなのかもしれない。自分は自分に都合よくできている。ボクの出来上がりはたぶんやさしい。絶望に支えられたやさしさってのもありなのかもしれない。
やさくなったボクはここに呼び出してくれたアクリル板の向こうの彼に今とても感謝している。できる限りのことをしたいと思っている。おとしまえをつけるってきっとこういうことを言うんだな。全ての出来事にグッドラック!グラウンドゼロはここからはじまる。
格子の向こうの光を歌った『太陽の破片』
カラオケ行きたいなあ
直観でもって法則を超えろ
若者は言った。
「できるだけ長く生活保護をもらって生きていきたいんです」と。
ボクは「何言ってんの?ダメだよそれは」と即座に否定した。
受容、自己決定、非審判的態度完全無視。PSWとしてはナンセンスなアプローチといえる。
「まあそれもいんじゃない…ここではなんでも話していいんだからね」と答えるくらいがきっとソーシャルワークとしては及第点だろう。
わかっている。あえてだった。統制された情緒的関与ってやつだ。
会話のやりとりじゃなく彼の人生に何か伝えたかったんだ。
彼にはその何かを受け止める準備ができていたんだとボクは直観したから。
病院に勤めていたら、たぶん出来なかっただろう。
人生軸で関われる立場だから言える言葉というものがある。その言葉を探すのがけっこう楽しい今日この頃なのである。
後天性ADHD
オンラインミーティングでモニターに映る参加者たち。与えられたスペースは皆に平等。その枠にボクはおさまれない。しゃべってもいないのに飛び出してしまう。比喩ではない。ほんとそのまま枠から消えてしまうことしばしば。落ち着かなさの見える化。つらい…。
タスクをさらさら処理する皆が宇宙人に見える。「宇宙人みたいですね」というと「宇宙人は淘汰さんの方でしょう」と言われる始末。
昔からこうだったのか?違う。ボクはいつもどこでもおちつきはらったいい子で育った。じゃあこの多動の剥き出しはどうしてなんだ?
……セクシャリティを晒すようになったからな気がする。潜在的多動気質をセクシャリティもろとも封印していたのかもしれない(仮説)。
後天的注意欠陥多動障害。そんな疾患名はきいたことがないが命名してみた。病名がつくと安心することもある。とはいうものの、さてこれからどうしたものか。
ホームフル映画『ノマドランド』
『ノマドランド』という映画を観た。
亡き夫との思い出を宿したバンに乗り、日々を過ごす女性の一年を追った映画だった。大きな事件は何も起こらない。悪い人も出てこない(というか彼女の周りには親切な人ばかりだ)。ホームレス支援の仕事をはじめる一年前だったら「退屈な映画だったなあ」そんな感想になったかもしれない。
気ままな一人旅というわけではない。人が生きていくにはお金がかかる。稼がなければいけいない。Amazonのピッキング、キャンプ場の清掃、レストランの厨房…車中生活を続けるため彼女は日銭を求め働く。
何も起こらないけどとてもスリリングだった。ぎりぎりのところで生きている彼女の生活は病気ひとつ、パンクひとつで途切れてしまうそんな崖っぷちジャーニーだから。鑑賞中「このままでいい。いいことも悪いことも何も起こらないで欲しい」ボクはずっと願っていた。
周りの人たちの愛情(具体的サポートの提案)を振り切り、夫の想い出とともに閉ざされたまま生き続ける姿はとても意固地に見えて共感できない。だけど理解はできる。それは彼女の生き様だから。生き方は変えれるけれど、生き様はもう受け止めるしかない。
かつての教え子に「先生はホームレスになったの?」と聞かれた主人公は「わたしはハウスレスなんだ」と訂正した。そうだよね。誰もがどこかにホームを持っているはずなんだよね。この映画は、ホームレスでもハウスレスでもなく、ホームフルに生きるひとりの人間を描いた映画だと思う。
親切に用意されたやわらかいベッドよりも窮屈な車に居心地の良さを感じる彼女の態度はホームレス支援あるあるの場面ですね。
記憶をなくしてこそ酒
さすがに飲む量は減ってきたが、それでもビール、焼酎、酒、ワイン、リキュールに眞露、紹興酒、なんでもござれだ。二日酔いなんて他人事。どれだけ飲んでも酒に飲まれることなんてなかった。ボクは笑い上戸で話し好き、いい酒の人間だ。アルコールに対して自信があったから酒の席も好きだった。「記憶をなくしてこそ酒」よくそう言っていた。
そんなボクが一度だけ記憶をなくしたことがある。はじめて新宿2丁目に飲みに出てきた20代前半のころの話だ。この街こそ居場所なんだと20年分の勇気を振り絞り、知らないバーのドアノブをぎゅっと握りしめた感触を今もよく覚えている。入った店にはカウンターの中にマスターが一人きり。お客はいなかった。ビギナーにはおあつらえのシチュエーションだったのかも。挨拶、世間話からビールを二杯くらい飲んだあたりでボクの記憶は途切れた。どのくらいの時間がたっていたのかはわからなかったが、白い靄が晴れていくように目が覚めた。こんな風に起きた経験ははじめてだった。後ろのソファー席に寝かされたボクのズボンはぬがされいて、性器はむき出しだった。マスターはすました様子で洗い物をしていた。ずぎずきする頭で身支度を整え、荷物を持って何も言わずにボクは店を出た。
何が起こったのかわからなかった。いやわかっていた。何かクスリを盛られて犯られたんだろう。いくら緊張していたとはいえビール二杯で記憶がとぶはずがない。
恨んでもいないし、自分を責めたりもしていない。二丁目はそういうとこだと決めつけもしないし、性に奔放になったのはあのせいだなんてくだらない分析もしない。思い出すことすらほとんどない。今の自分とあの夜の出来事はつながらない。すっぽりとそこだけ別物だ。変わっていない。何も変わっていないし、変わらない。あれ以来「記憶をなくしてこそ酒」と言わなくなったこと以外ボクは何も変わっていない。
変わらないボクをよそに、数週間後その店の看板は別の名前になっていた。
酒(特にお気に入りのビターズ)も二丁目もゲイバーも、そして自分自身も嫌いにはなれません